第一五七回 ④
天仙娘ツジャンを療やして眷恋を躱し
黒曜姫メサタゲを招いて兇手を殲ぼす
アネクはいよいよ闘志も顕に一歩踏み出そうとしたが、再び戸張が開いて、
「ハトン、もうお下がりください。あとはみなに委せましょう」
声の主は打虎娘タゴサ。やむなく中へ入る。その戸張にまた二本、矢が刺さる。その瞬間、大ゲルの上方から矢を放ったものがある。闇の中に吸い込まれたかと思うと、
「ぎゃっ!!」
悲鳴が挙がる。どうやら刺客を一人葬ったらしい。はっとメサタゲが仰ぎ見れば、大ゲルの天窓の辺りにシャイカがあって弓を構えている。
「何といつの間に」
驚いているうちにも方々からシャイカを狙って矢が飛び交う。しかしさっと伏せれば、いずれも中たらず地に落ちる。
「あの娘、笑っているぞ。余裕綽々というわけか」
感心しているときではない。麾下に命じて、矢が放たれた辺りを指して斉射を命じる。魔軍の兵衆は無論のこと、侍衛兵も勇躍して盛んに射る。また二、三人屠ったようだ。
はたと刺客の攻勢が止む。
メサタゲたちも手を休めて、怠りなく様子を窺う。そのうちにシャイカがするすると下に降りてきて言った。
「おそらく敵人は矢が尽きた」
「なるほど。退くかな」
小首を傾げて考えていたが、やがて言うには、
「襲ってくるよ。先にハトンに迫ったように」
「それはそれで難敵だな」
得物を握りなおして気を引き締める。彼奴らが狙うのは、きっと将たる己とシャイカの二人に違いない。
静寂……。ときが止まったかと思われるほど長い静寂。みな息を殺して、ことが起きるのを待つ。
さあっと風が草原を撫でる。ふと息を吐いて、
「黒曜姫はああ言ったが……」
言いかけた刹那、眼前に黒い影が跳び上がって、
「…………!」
無言のまま刺突してくる。
「うぉっ!」
虚を衝かれたメサタゲは対応がやや遅れる。
と、数歩離れたところにいたシャイカの右手がさっと振られた。何かが飛んで刺客を捉える。もんどりうって転がったのを見れば、例の鉄針(注1)が頸脈に突き刺さっている。
「ありがとう! やあ、殆うかった」
「気を抜いたらいけないよ。活寸鉄、侍衛兵に命じて灯を!」
意図を察して、即座に炬火の使用を許す。たちまち幾十もの灯が周辺を照らしだす。もう飛矢を怖れる必要がないとなれば、明るいほうが敵の接近に備えられるというもの。
効果は覿面、早速地に這いつくばって周章している敵を見つけた魔軍の兵衆が、一斉にこれを襲って斬殺する。ほかにも跳ね起きて背を向けたものがあって、斉射を浴びせる。
暗殺ではなく正対しての戦闘であれば、魔軍はまさしく無敵。次々に刺客を見つけて根絶やしにする。半刻も経たぬうちに掃討に成功する。メサタゲは漸く安堵して、
「恐ろしい敵人だった。黒曜姫がなければ守りきれなかったかもしれない」
シャイカは朗らかに笑って、
「そんなことないよ。むしろ活寸鉄のおかげだよ。もし魔軍の精鋭がいなければ、ハトンが自ら身を晒して戦うことになっていたかも」
「考えただけでぞっとするな。いかにハトンが勇猛とはいえ、あれは尋常のものとは違う」
ふとメサタゲは気づいたことがあって、尋ねて言うには、
「なぜ早く炬火を灯させなかったのだ。おかげでかなり肝を冷やしたぞ」
すると莞爾として答えて言うには、
「一には、まことに矢が尽きたのか確かめるため。二には、あえて近接させて殲滅するため」
「ははあ、そのために俺を的にしたか」
そう言いつつ、どこか楽しげである。シャイカは肩を窄めて、
「でもこれでしばらくは心配ない。あれだけ腕のある刺客を短時日に揃えることはできない。もちろん警戒は怠らないけど」
メサタゲはおおいに感心すると、
「お前はたいした娘だ! 今日の危機に接しながら、明日の安寧をも考えていたとは!」
それから二人は、中で待つアネクたちに事の次第を報告した。アネクはシャイカを激賞して、
「何てすばらしい! 貴女は天王様が遣わした神女じゃないかしら」
しかしそのあと付け加えて、
「もし貴女がいなかったら、私と打虎娘の二人だけで退けるには、少しばかり手がかかっただろうよ」
メサタゲは僅かに目を見開き、シャイカはころころと笑った。さすがは勇猛を謳われた女傑、自負はいささかも揺るがない。まさに面目躍如といったところ。
かくして、卑劣な襲撃は異能の娘の活躍によって回避されたわけだが、四頭豹の奸智たるや僅かな隙も許されぬ。
これを打倒しなければ草原に安住の地はない。「吊るした剣の下では眠れない」とはまさにこのこと。果たして、このあと黄金の僚友はいかにして奸智を砕くか。それは次回で。
(注1)【例の鉄針】シャイカの得意とする暗器。第一三八回②参照。