第一五七回 ③
天仙娘ツジャンを療やして眷恋を躱し
黒曜姫メサタゲを招いて兇手を殲ぼす
と、一人の侍衛兵が暗闇に堪えかねて炬火を灯さんとする。
「あっ!」
メサタゲが制する暇もない。火を点けた途端に矢の雨を喰らって仆れ伏す。
「見ただろう! 火は点けるな。的になるだけだぞ」
言うなりさっと移動する。すると、狙い違わずもともと立っていたところへ方々から矢が飛来する。もちろん空を切って地面に突き立つ。
「はあ、殆うい、殆うい。もう迂闊に声も出せないか」
そっと身を屈めて辺りを窺う。余のものも黙って倣う。敵人も間合いを取って伏せているのか、しんとして気配もない。身動ぎもせぬままときが経つ。
「困ったものだ。俺はいいが、兵衆の緊張がもたぬぞ」
傍らの兵が囁いて、
「備えがあるのを看て、すでに逃げてしまったのでは……?」
やはり小声で返して、
「いや」
そのとき、前方で小さな黒い影がすばやく動く。
「うわあぁぁっ!!」
侍衛兵の一人が悲鳴とともに立ち上がって矢を放つ。たちまちどこからか矢が飛んできて骸となる。
「……鼬(いたち)だ」
なかなかまずいことになった、とメサタゲは思う。侍衛兵はすでに恐慌を来している。怯えるあまり尋常の判断ができなくなっている。鼬と人の見分けもつかぬのでは、ひょっとすると敵と味方も見違えるかもしれぬ。
「さぁて、どうしたものか」
メサタゲが黙考していると、不意にすぐ近くから、
「活寸鉄」
呼びかけられてぎょっとする。はっと顧みれば、何と黒耀姫がそこにいる。
「驚かすな。まるで気づかなかったぞ」
抗議には取り合わず言うには、
「瓊朱雀様、打虎娘様をはじめ女たちは、さっきの笛を聞いてすでに大ゲルに移ったよ」
「そうか」
「我らの使命は、三后とハーンの僚友たる女官を護ること」
「ふむ、そうだな」
「ほかのことは気にしなくていい」
そう言ったかと思うと、かき消すようにいなくなる。
「やれやれ、恐ろしい娘だ。黒曜姫が刺客だったら、すでに俺は死んでるな」
身震いすると、四方に目を配りつつ静かに移動しはじめる。連れて三百騎もじりじりと後退して、大ゲルの周囲に集まってくる。とにかく何人失っても、大ゲルにさえ敵を寄せつけなければよい。
そのうちにも幾人かが討たれる。矢で射抜かれたものもあれば、剣で斬られたものもある。傍にいたものがあわてて反撃を試みるが、影すら捉えられない。
侍衛兵たちはますます戦慄して、じっとしていることもできない。自暴を起こして、当てもなく得物を執って駈けだしたものもあったが、当然すぐに餌食となる。
メサタゲは辛抱してともかく兵衆を集める。散開して個々に討たれんよりは、たとえ標的にされやすくとも、数をもって人の壁を築くことにしたのである。
しゅっ、しゅっと空を裂く音がするたびに一騎、また一騎と仆れる。射返してみるが手応えはない。メサタゲはなおも堪える。
侍衛兵の心はいよいよ摩耗して、一人が立ってついに叫ぶ。
「俺は逃げるぞ……」
言い終わるか終わらぬかのうちに喉を射抜かれる。ざわめき、波のように動揺が広がる。ついには悲鳴や怒号が巻き起こる。メサタゲは顔を顰めて、
「参ったな。こんな騒ぎじゃ敵が近づいても判らない」
と、卒かに大ゲルの戸張が開く。小さな人影が現れると、
「静まれ! それでも我が侍衛か!」
みなはっとして振り返れば、そこには何と鉄鞭のアネク。一斉にあわてて言うには、
「ハトン! 危ない。お下がりください!」
口々に叫ぶ。気にする様子もなく威風凛々、辺りを圧して言うには、
「よいか、臆するな! 戦場にあっては、怯んだものから死ぬんだよ!」
その姿は奥座にあるハトンのそれではなく、まさに威名を轟かせた猛将のもの。兵衆は雄心を奮い起こされてたちまち沈着を取り戻す。
そこへ、ひょうっと風を切ってふた筋の矢が飛来する。アネクは軽く身を捻ると左手をさっと翻す。一本は戸張に突き立ち、一本は鉄鞭に弾かれる。みなおおいに肝を冷やしたが、アネクは動じることなく艶然と微笑みすらして、
「中たるもんか。鉄鞭のアネクを侮っちゃいけないよ」
兵衆は思わず、うおぉと歓声を挙げる。
と、不意にアネクの目の前の地面がふわっと浮き上がったかと思うと、黒衣の刺客が躍り上がって短剣を振り翳す。
みなあっと息を呑んだが、これも右手を一閃、一撃で叩き伏せる。
「驚かすんじゃないよ」
そう言いつつも息ひとつ乱れていない。