第一 六回 ②
インジャ乃ち虜囚と為りて女傑に遇い
アネク忽ち玉質を損ない義君に救わる
「妙策も何も、こんな縛りかたでこの五技鼠様を捕まえたなんて思われちゃかないませんや」
「何?」
驚く間にジュゾウは、腰の位置を見張りから見えぬよう少しずらすと、さっと縄を解いて見せた。みなあっと息を呑む。
「どうです?」
「いやいや、どうですと言われても、それでお前はどうする気だ」
ナオルがあわてて窘めた。すると得意げに言うには、
「直にさっきの女将軍に聞いてみましょうや」
「阿呆か、お前は! 騒ぎになったらどうする、たとえ左派だとしてもただではすまんぞ」
「でも右派だったらここで死ぬのを待つだけでしょう? もし右派だったとして、ナオル殿やインジャ様の顔を覚えている奴がいたらそれでおしまいだ。ここはひとつ女将軍の寝所を襲って、右派なら人質にして逃げるし、左派なら平身低頭謝りましょう」
平然と言うので、ナオルは呆れて反論もできない。
そこでインジャが口を挟んだ。
「失敗すれば即座に斬られるぞ」
ジュゾウはあくまで余裕綽々、不敵に笑って、
「いわば奇襲だ、騒がれるようなへまはしません」
「もっと容易に左派か右派か判らんかなあ」
ナオルが首を捻る。
「見張りの兵に聞いてみてはどうだ」
ハツチが言えば、ジュゾウが笑い飛ばして、
「はは、密偵と疑われてる奴が何を聞いても埒が明くまいよ。いよいよ怪しまれるだけだ。なあ、インジャ様、こいつは俺の経験から言うんだが、危地に陥ったときは、思いきった手を打つのが実はもっとも安全なんですぜ」
インジャは考えた末に、
「もし右派だったら、朝になれば確実に逃げられなくなる。よし、ここは飛生鼠に委せよう」
「義兄、よろしいのですか? 左派だったら……」
「しかしそれを見分ける術を我らは知らない」
その言葉でナオルは黙ったが、ここで遠慮がちに反対したものがある。誰あろう、美髯公である。ジュゾウが不満げに言った。
「どうしたんだい。何かほかに名案でもあるのかい?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだが……」
「じゃあ何なんだ」
「夜に娘の寝所に押し入るってのはどうも気が進まん」
さてハツチもほかに考えがあるわけではないので、結局この案に順うことにした。そうこうするうちにいつしか夜も更けた。篝火もだんだんと細くなり、四人がおとなしくしていたので見張りの兵も漸く気が弛んでうつらうつらしはじめる。
インジャらは機を見計らって一斉に立ち上がった。足を忍ばせて見張りに近づくと、さっと手刀を走らせる。見張りは声を立てる間もなくばたばたと倒れ伏す。念のため縄で縛って猿轡を噛ませると、夜目の利くジュゾウを先頭に駈けだした。
「ジュゾウ、アネクのゲルは判るのか?」
ナオルが尋ねれば、答えて言うには、
「これくらい明るければ遠くまでよく見えるし、だいたい見当はついてんだ。間違うことはなかろうぜ」
あとは四人とも黙って走る。しばらくしてジュゾウが立ち止まったので正面を見れば、周囲のものより少しばかり大きなゲルがあった。
「あれだ」
「真か。確かに大きいが、かといってアネクのものとはかぎるまい」
ナオルが疑えば、にやりと笑って、
「間違いない。わけを教えてやろうか。匂いだよ、匂い。あのゲルからさっきの女の匂いがするぜ」
それを聞いてみなアネクが身に纏った芳香を思い起こした。しかしジュゾウ以外の三人は何も感じられない。
「何だ、しょうがねぇな。ぷんぷん香ってくるじゃないか。ま、俺は人より多少鼻が利くんでね、信じてください」
さすがは五技鼠、三人はもちろん頷く。
勝負はここからである。失敗は許されない。
インジャが右手を挙げた。それを合図に四人は脱兎のごとく駆けだして、一気にゲルの中へ躍り込む。不思議なことに一人の衛兵すらいなかったが、これはアネクがすっかり気を抜いていたからである。
幕を隔てて仕切られた奥の間へ飛び込む。ジュゾウがすばやく枕の上の顔を布で押さえつけた。
「んんっ!」
声にならない悲鳴が漏れた。まさしくそれはチハル・アネクのもの。
ジュゾウの手を払い除けようと抗ったが、インジャ、ナオルが瞬く間にその四肢の自由を奪う。ハツチが縄を取り出して、なおも暴れるアネクをやっとのことで縛り上げた。
アネクも一軍の将とはいえやはり一個の少女、草原の丈夫四人にかかっては為す術もない。ほどなく抵抗を諦める。ジュゾウが抜かりなく猿轡を噛ませた。
そっと灯が点された。アネクの眼に四人の姿が明らかになる。その眼が潤んでいるのを見て、好漢たちはたちまち後悔の念に駆られた。インジャが拱手して頭を下げる。
「手荒なことをして申し訳ない。決して貴女に危害を加えようというのではありません。まずは誤解なさらないよう」
ひと息吐いて、さらに言うには、
「貴女はベルダイの将軍だとおっしゃいましたが、ベルダイ氏は二派に分かれて相争っております。貴女がどちらの陣営に属されているのかというのは、我々にとって命に関わる重要事。そこで夜分に非礼とは承知しつつ、敢えて参上した次第です。ここまではよろしいですか」
アネクはゆっくりと頷いた。インジャは続ける。
「ではお尋ねします。貴女の族長は、トシ・チノですか?」
少し間が空いたが、やがてアネクは小さく頷いた。