第一五五回 ②
シノン黒袍の塋を定めて気概を顕し
ヤマサン莫逆の友を助けて城塞に拠る
遠望したドクトは、数百の寡兵が布陣しているのを見て、
「……何と。ここを死地と定めたか」
慨嘆してオノチを顧みれば、言うには、
「隻眼傑の矜持だ。全力で応えてやろうではないか」
ドクトは頷いて得物を握りなおす。
ナルモント、ジョルチの連合軍は続々とイルシュ平原に入る。二万騎が次第に展開して、翼を広げたような陣形となる。
その前では数百騎など、奔流に投じた小石のごとく頼りない。それでも黒袍軍の士気は高く、怯むどころかたびたび喊声を挙げて戦意を高める。
インジャは後方からそれを望んで、傍らのナユテに言った。
「隻眼傑は疑いなく一方の英傑。惜しむべき漢だが……」
「はい。宿運が僅かに違えば、後世まで天下の名将として名を遺したでしょう」
同じくヒィ・チノも黒袍軍が気勢を上げるのを見ていたが、何も語らない。その表情には怒りも悲しみもなく、ただただじっと視ているばかり。傍にあるミヒチやゾンゲルは、その心中を忖って声をかけることもできない。
そしてシノンはこの絶望的な状況において、むしろ懊悩や鬱屈がことごとく去ったかのような涼しい顔で敵の大軍を眺める。
「前にあるのはインジャの狗か。その向こうは小金剛モゲトの旗。ハーンの中軍はさらにその奥……」
馬を歩ませて前に出ると、顧みて槍を掲げる。言うには、
「ここイルシュを、ハーンが名づけた黒袍軍の墓所とする!」
兵衆はみな得物を突き上げて、おうと応える。シノンは莞爾として馬首を敵陣に向けると、
「さあ、ハーンに最後の挨拶と行こうか!!」
言うや否や馬腹を蹴る。兵衆も弾かれたようにこれに続いて、たちまち疾駆に移る。寡兵なりといえども、その速さは神風将軍のそれに勝るとも劣らない。
対するドクトは嘆声を漏らして、
「おお、自ら飛び込んでくるぞ!」
即座に迎撃の令を下す。また諸軍も兵を動かして、両翼より黒袍軍を包み込まんとする。
シノンとその軍勢は一直線に中央突破を図る。ドクト率いるカミタ軍はジョルチの中でも精鋭中の精鋭、しかし死兵と化した黒袍軍の勢いに押し込まれる。
「進め、進め! ハーンに見えるまでは足を止めるな!」
縦横無尽に槍を振るいながらシノンが叱咤する。一個の塊となって群がる敵兵を蹴散らしていく。
オノチが驚いて思わず言うには、
「これが隻眼傑、これが黒袍軍か。速い、そして強い!」
そこでシノンを射殺せんとて弓を構えたが、珍しく躊躇したあげく首を振って、
「乱戦のうちに矢をもって討つべき将ではないか……。俺も甘いな……」
改めて槍を執ってこれを追う。
カミタの陣を突き抜ければ、小金剛モゲトのタラント軍が立ち塞がる。さらに呑天虎コヤンサンのズラベレン軍、双璧のベルダイ軍、迅矢鏃コルブのマシゲル軍が四方からこれを包囲殲滅にかかる。さすがの黒袍軍もみるみる数を減じる。
……結果から言えば、黒袍軍はあっと言う間に消滅した。譬えて云えば、炬火を大海に投じたようなもの。どんなに盛んに燃えていても及ぶべくもない。
しかしその姿は、多くの好漢の心に強烈な印象を遺した。誰もが隻眼傑の将才を疑わなかった。黒袍軍の猛勇に賛辞を惜しまなかった。
そして黒袍軍の精鋭たちは、ついには身を挺して主君を逃すことにすら成功した。シノンは戦いつつ離脱を余儀なくされた。当人の意志を超えて、将兵がこれを逃したのである。
追撃を振りきったとき、従う兵はすでに二十騎ほど。やむなく光都の笑面獺ヤマサンを頼って落ち延びる。大道を避けて隠れて進み、退路を扼していたはずのアステルノの目をも欺く。
しかし光都まであと百里というところで、赫彗星ソラの軍勢に発見される。困憊していたシノンたちは、もはやこれまでと心を決めて得物を執る。相手はおよそ千騎、もちろん敵うべくもない。
ソラは雀躍して、
「おお、あれこそ賊魁に違いない。殆うく小網に捉え損ねるところだったわ」
号令一下、襲いかからんとする。
と、卒かに南方から馬蹄の響き。そして喊声。金鼓を鳴らして猛然と近づく軍影がある。ソラもシノンも友軍か否か測りかねて彼方を見遣る。
歓声を挙げたのは、黒袍軍。旗を見れば、何と光都のヤマサンの手勢。さらに驚いたことにはダルシェの旗が混じっている。
「魔軍、だと!?」
ソラは愕然とする。言うまでもなくダルシェには良い記憶がない(注1)。もちろん盤天竜ハレルヤであるはずがない。彼はインジャと盟を結んで中原にある。
ここに現れたのは誰かと云えば四頭豹に投じた二将の一人、トゥクトゥクであった。シノンに加勢するべく遅ればせながら東原へと渡ってきたもの。
みるみる寄せてくるのを算えれば、おおよそ三千騎。千騎をもって争うべきで敵ではない。ソラは切歯扼腕しつつ撤退を命じたが、くどくどしい話は抜きにする。
(注1)【良い記憶がない】ソラは幾度もダルシェに苦杯を嘗めさせられている。第八 三回①から第八 三回④、また第九 八回③参照。