第一五四回 ③
ヒィ神風将軍を起用して敵を脅かし
シノン覚真導師に辟易して槍を揮う
シノンは瞠目して思わず言うには、
「敵の先鋒は何ものだ。目瞬きほどの間に飛ぶように接近してくるとは」
しかし兵力ではまだ圧倒している。すかさず第二陣、第三陣を繰り出す。おうと喊声を挙げるとともに、約一万騎が地を揺るがせて前進する。
「速い兵は、何よりまずその足を止めることだ。最初の一撃を堪えれば、脅威は半減する」
誰にともなく呟く。傍らに幕僚たる人材はない。
ふと見遣れば、ブルドゥン・エベがテンゲリを仰いで何やらぶつぶつと祈祷している。一瞬かっとなって、斬り捨ててやろうかという衝動に駆られたが、唇を噛んで無理に目を逸らす。
そこへ前線から早馬が至って言うには、
「ジェジュ様、戦死! 敵に礫を能く投げるものがあり、一撃を浴びて討ちとられました!」
すなわち赫彗星ソラのことであるが、シノンは与り知らぬこと。
いよいよ前線は浮足立ち、瓦解寸前。新たに投入した一万騎にも波及して、早くも四分五裂の様相。ジェジュの死を悼んでいる暇もない。
さらに第四陣を送る命令を下さんとしたときであった。
「う、うおおおおっ! 暴君め、恕すまじ!!」
卒かに臓腑を抉るがごとき忿怒と怨嗟に満ち満ちた咆哮が耳朶を打った。
驚いて顧みれば、ブルドゥン・エベが両眼をかっと見開き、わなわなと震えながら立ち尽くしている。その顔は見る間に青くなり、赤くなり、ついには紫色に染まる。
「ど、どうした、太師」
やや怯みながら問えば、虚空に向かって、
「おのれ、先には父を、そしてまた我が半身とも言うべき股肱を……。ヒィめ、決して恕さぬぞ! 必ず殺す! その目を潰し、舌を抜き、心臓を穿つべし!」
聞くに堪えぬ呪詛を撒き散らす。その形相に周囲の兵衆は恐れ戦き、十数歩も退いて見ているばかり。
なおもブルドゥン・エベは叫んだり、呪ったりしていたが、不意につかつかとシノンのもとに駈け寄る。シノンは退きこそしなかったが、何ごとかと身構える。すると目をぎらぎらさせながら迫って言うには、
「さあ、全軍に突撃の令を! さあ、さあ! 刺し違えてでもあの憎きヒィ・チノを殺してください! 殺せ! 殺せ!」
鞍に縋って喚く。その背からはゆらりと黒い炎が立ち上っているかのよう。シノンは瞑目してひとつ首を振ると、
「太師は錯乱している。誰か後方へお連れせよ!」
近衛の数名が、恐る恐るこれを鞍から引き剥がして連れ去る。なおもヒィへの呪詛は止まらない。耳を掩いたくなるような怨毒に不快を覚えぬものとてない。やっとのことで遠ざかると、一人の兵が馬を寄せて言うには、
「あの覚真導師なるもの、かつてヒィ・チノに亡ぼされた家の生き残りという噂があります」
「そうなのか?」
「天導教が殊更にヒィを敵視するのも私怨極まってのこととか。今の様子を見るにあながち妄言とも言えません。あまり信用せぬほうがよろしいかと……」
シノンは答えなかったが、内心おもえらく、
「俺はあんな奴、信じたことは一瞬たりともない」
また思考は飛んで、
「笑面獺を除けば、信じたのはただ一人、ハーン(※ヒィ・チノのこと)だけだ」
その目にみるみる瞋恚の炎が点る。そして図らずも声に出して叫んだ。
「……なのにハーンは、この俺よりもインジャごときをっ!!」
傍にいた騎兵はおおいに驚いて主君の顔をまじまじと視る。シノンははっと我に返ると、
「すまぬ。何でもない。忘れろ」
「……はい」
この一連の騒ぎの間にも戦局は絶えず動いている。シノンが何の指令も下せなかった僅かな隙に、前線では大きな変化が起こりつつあった。
猛威を振るった神風将軍の兵が整然と退きはじめたのである。代わって躍り出たのは何とヒィ・チノ自ら帥いる中軍。小金剛モゲトを先頭に猛攻を加える。この痛撃によって、ついに投入した三軍は毀たれる。
またこれまでは身命を棄てて戦っていた青袍教徒たちの動きがどうも鈍い。心に迷いが生じているのか、死地に投じることに躊躇がある。よってヒィ・チノの攻勢は止まることなく、次第に斬り進んで中軍に迫る。
さらにシノン軍に動揺が走る。いよいよ右翼の神都軍の逃走が衆目に明らかとなったのである。
「ああ、天兵が、天兵が……」
兵衆の落胆は著しく、さらに矛先が鈍る。今や右翼の守りも失って、ベルダイ軍が突入してくる。ときを同じくして左翼も崩壊、迅矢鏃コルブを先駆けとするマシゲル軍が側面を脅かす。
七万騎の威容はどこへやら、三方から攻め立てられて戦列を立て直すべくもない。後軍に配した南伯時代から傘下にあった小氏族の族長たちの中には、恐慌を来して早々に離脱するものまで現れる。
「脆い! 何と脆い……。退け、退け! 退いて再起する」
シノンはそう決断するや否や、馬首を転じる。退却の銅鑼が轟きわたれば、みなわっと悲鳴を挙げて逃げ散る。殿軍を務めるものもない。
ヒィ・チノとインジャは兵を併せてこれを追撃するとともに、盛んに投降を呼びかければ、多くのものが得物を棄てて降伏する。