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草原演義  作者: 秋田大介
巻一一
615/783

第一五四回 ③

ヒィ神風将軍を起用して敵を(おびや)かし

シノン覚真導師に辟易(へきえき)して槍を(ふる)

 シノンは瞠目して思わず言うには、


(ブルガ)先鋒(ウトゥラヂュ)は何ものだ。目瞬き(ヒルメス)ほどの間に飛ぶように接近(カルク)してくるとは」


 しかし兵力ではまだ圧倒している。すかさず第二陣、第三陣を繰り出す。おうと喊声を挙げるとともに、約一万騎(トゥメン)(コセル)を揺るがせて前進する。


速い(クルドゥン)兵は、何よりまずその(フル)を止めることだ。最初の一撃を堪えれば、脅威は半減する」


 誰にともなく呟く。傍ら(デルゲ)に幕僚たる人材はない。


 ふと見遣(みや)れば、ブルドゥン・エベがテンゲリを仰いで何やらぶつぶつと祈祷している。一瞬かっとなって、斬り捨ててやろうかという衝動に駆られたが、(オロウル)を噛んで無理に(ニドゥ)()らす。


 そこへ前線から早馬(グユクチ)が至って言うには、


「ジェジュ様、戦死! 敵に(つぶて)()く投げるものがあり、一撃を浴びて討ちとられました!」


 すなわち赫彗星ソラのことであるが、シノンは(あずか)り知らぬこと。


 いよいよ前線は浮足立ち、瓦解寸前。新たに投入した一万騎にも波及して、早くも四分五裂の様相。ジェジュの死を(いた)んでいる暇もない。


 さらに第四陣を送る命令(カラ)を下さんとしたときであった。


「う、うおおおおっ! 暴君(ハラ・エルキム)め、(ゆる)すまじ!!」


 (にわ)かに臓腑を(えぐ)るがごとき忿怒(アウルラアス)と怨嗟に満ち満ちた咆哮が耳朶(じだ)を打った。


 驚いて顧みれば、ブルドゥン・エベが両眼をかっと見開き、わなわなと震えながら立ち尽くしている。その(ヌル)は見る間に青くなり、赤くなり、ついには紫色(カラムバイ)に染まる。


「ど、どうした、太師」


 やや怯みながら問えば、虚空に向かって、


「おのれ、先には(エチゲ)を、そしてまた我が半身とも言うべき股肱(ここう)を……。ヒィめ、決して恕さぬぞ! 必ず殺す(アラハ)! その目を潰し、(ヘル)を抜き、心臓(ヂュルケン)穿(うが)つべし!」


 聞くに堪えぬ呪詛(ハラアル)()き散らす。その形相に周囲の兵衆は恐れ(おのの)き、十数歩も退いて見ているばかり。


 なおもブルドゥン・エベは叫んだり、呪ったりしていたが、不意につかつかとシノンのもとに駈け寄る。シノンは退きこそしなかったが、何ごとかと身構える。すると目をぎらぎらさせながら迫って言うには、


「さあ、全軍に突撃の令を! さあ、さあ! 刺し違えてでもあの憎きヒィ・チノを殺してください! 殺せ! 殺せ!」


 (エメル)(すが)って(わめ)く。その背からはゆらりと黒い炎(ハラ・ガルチュ)が立ち(のぼ)っているかのよう。シノンは瞑目してひとつ首を振ると、


「太師は錯乱している。誰か後方へお連れせよ!」


 近衛(ケシク)の数名が、恐る恐るこれを鞍から引き()がして連れ去る。なおもヒィへの呪詛は止まらない。(チフ)(おお)いたくなるような怨毒に不快を覚えぬものとてない。やっとのことで遠ざかると、一人の兵が(アクタ)を寄せて言うには、


「あの覚真導師なるもの、かつてヒィ・チノに亡ぼされた家の生き残りという噂があります」


「そうなのか?」


「天導教が殊更(ことさら)にヒィを敵視するのも私怨極まってのこととか。今の様子を見るにあながち妄言とも言えません。あまり信用せぬほうがよろしいかと……」


 シノンは答えなかったが、内心おもえらく、


「俺はあんな奴、信じたことは一瞬たりともない」


 また思考は飛んで、


「笑面(だつ)を除けば、信じたのはただ一人、ハーン(※ヒィ・チノのこと)だけだ」


 その目にみるみる瞋恚(しんい)(ガル)(とも)る。そして図らずも(ダウン)に出して叫んだ。


「……なのにハーンは、この俺よりもインジャごときをっ!!」


 傍にいた騎兵はおおいに驚いて主君(エヂェン)の顔をまじまじと視る。シノンははっと我に返ると、


「すまぬ。何でもない。忘れろ」


「……はい(ヂェー)


 この一連の騒ぎの間にも戦局は絶えず動いている。シノンが何の指令も下せなかった僅かな隙に、前線では大きな変化が起こりつつあった。


 猛威を振るった神風将軍(クルドゥン・アヤ)の兵が整然と退きはじめたのである。代わって躍り出たのは何とヒィ・チノ自ら(ひき)いる中軍(イェケ・ゴル)。小金剛モゲトを先頭に猛攻を加える。この痛撃によって、ついに投入した三軍は(こぼ)たれる。


 またこれまでは身命を棄てて戦っていた青袍教徒たちの動きがどうも鈍い。(セトゲル)に迷いが生じているのか、死地に投じることに躊躇がある。よってヒィ・チノの攻勢は止まることなく、次第に斬り進んで中軍に迫る。


 さらにシノン軍に動揺が走る。いよいよ右翼(バラウン・ガル)神都(カムトタオ)軍の逃走(オロア)が衆目に明らかとなったのである。


「ああ、天兵が、天兵が……」


 兵衆の落胆は著しく、さらに矛先が鈍る。今や右翼の守りも失って、ベルダイ軍が突入してくる。ときを同じくして左翼(ヂェウン・ガル)も崩壊、迅矢鏃(じんしぞく)コルブを先駆けとするマシゲル軍が側面を(おびや)かす。


 七万騎の威容はどこへやら、三方から攻め立てられて戦列(ヂェルゲ)を立て直すべくもない。後軍(ゲヂゲレウル)に配した南伯時代から傘下にあった小氏族(オノル)族長(ノヤン)たちの中には、恐慌を(きた)して早々に離脱(アンギダ)するものまで現れる。


(もろ)い! 何と脆い……。退()け、退け! 退いて再起する」


 シノンはそう決断するや否や、馬首を転じる。退却の銅鑼が轟きわたれば、みなわっと悲鳴を挙げて逃げ散る。殿軍を務めるものもない。


 ヒィ・チノとインジャは兵を併せてこれを追撃するとともに、盛んに投降を呼びかければ、多くのものが得物を棄てて降伏する。

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