第一五四回 ②
ヒィ神風将軍を起用して敵を脅かし
シノン覚真導師に辟易して槍を揮う
オハザフに至ったヒィ・チノたちは早速布陣する。前軍はもちろんアステルノとソラ。中軍はナルモント軍。
右翼に獅子ギィ。左翼に霹靂狼トシ・チノ。後軍にインジャたちジョルチ軍。うちドクトとオノチの二人は千騎を率いて中軍に加わる。
シノン軍も姿を見せる。総勢七万騎。うようよと現れて、徐々に平原を埋めていく。整然とはほど遠い有様だが、とにかく数が衆い。
前軍を預かるのはジェジュ。今や唯一の名のある将である。とはいえ万騎を率いる器ではない。呼擾虎グルカシュの神都軍は右翼に配される。中軍にあった覚真導師ことブルドゥン・エベは、シノンに告げて言うには、
「テンゲリの加護は真の王たるハーンにございます。進めば敵は必ず退き、正義の剣を揮えば仇に禦ぐ術はありません」
「……だとよいがな」
辟易しつつ受け流す。
近ごろ兵衆に及ぼす力が落ちていることを、当のブルドゥン・エベも自覚している。そこでなおも言うには、
「正法を行うものが負けるわけがありません。信じるものの頭上にこそ勝利の冠は輝くのです。天兵の援けもあります。我が兵衆はきっと命を棄てても法敵を駆逐するでしょう」
シノンは隻眼をこれに向けて、ぎろりと睨むと、
「……少し黙っていてもらおうか。戦について考えているのだ」
「ですから考えるまでもなく突き進めば……」
「黙れ」
ただならぬ調子に漸く口を噤む。居づらくなったブルドゥン・エベは一礼して退くと、兵衆を鼓舞するべく何処かへ去る。
一方のヒィ・チノは、敵陣を望見して鉄面牌ヘカトに尋ねた。
「我らは昨年、この地で奴らと戦った。そのときと比べてどう思う」
「ううむ。数は増えたが、戦列はより乱れている。士気も低い。総じて迫力は劣るように見える」
これを聞くとにやりと笑って、
「然り。まさに烏合の衆というわけだ」
そこで雷霆子オノチを顧みると、
「勝ったぞ」
戦端を開く前に豪語して、これを驚かす。
いよいよ戦機熟して金鼓轟き、両軍の先鋒が動きだす。アステルノ率いるヤクマン軍は号令一下、あっと言う間に疾駆に転じる。戦列は整って、飛び出すものも遅れるものもない。猛虎の爪牙が獲物を襲うがごとく、速度を上げながら一直線に突進する。
ジェジュも兵衆をおおいに叱咤しつつ前進したが、半ばは進み、半ばは遅れ、あるいは猛り、あるいは怯むといった有様。
どうにか矢の届く間合いに達したと見て、おもむろに斉射を命じる。それぞれ足を緩めて矢筒から矢を取り出し、弓につがえていざ放たんとする。
と、何たることか、アステルノの軍勢はその暇も与えずに突入してくる。驟雨のごとく矢を放ちながら、むしろ速度を上げて間合いを詰めてきたのである。
まさに風。
「まさか!」
「速いっ!」
「うわああぁぁっ!」
ジェジュの兵衆は驚愕し、戦慄し、恐慌する。たちまち崩れて、堰を切った水に呑み込まれたかのごとく押し戻される。千々に寸断されて、片端から屍と化す。
その凄まじい戦ぶりは、いかに死を恐れぬ兵とて問題にしない。竜巻のごとくひたすら敵陣を薙いでいく。
右翼を預かるギィはそれを見て、おおいに感嘆して言うには、
「あれが神風将軍か(注1)。味方でよかった」
蓋天才ゴロが頷いて、
「用兵の速さは草原随一。比肩すべきは西原の麒麟児のみとか」
「さて、感心してばかりもいられぬな。我らも前へ!」
合図とともに左右両翼がどっと押しだす。右が獅子なら、左は狼。左翼のトシ・チノは、隼将軍カトラと鳶将軍タミチの双璧を先頭に一丸となって進む。
対するはグルカシュの神都軍。金鼓を打ち鳴らせば、いよいよ天兵の登場とて叛軍からはわっと歓声が挙がる。その兵装は草原でも冠たる一級品、真紅の地に黄金の鷹を配した旗を掲げて、威風辺りを払う。
しかし長韁縄サイドゥはふんと鼻で笑って、
「神都の兵は外見だけで、中は空です。心配は要りません」
「ははは。もとより心配などせぬわ。かつて山塞で一蹴した(注2)相手ではないか」
トシ・チノも剛毅に笑い飛ばして、馬を進める。かくしてベルダイ軍と神都軍もまた激突する。
天兵への過大な期待は、膨らむ間もなく打ち砕かれる。双璧の突入を許した神都軍は右往左往、たちまち乱れていたずらに兵を失う。
グルカシュは勇猛だが思慮に欠け、これを輔けるべきムンヂウンとブギ・スベチもまた平凡な器量の主。為す術もなくひたすら怒号を挙げて、上を怨み、下を謗り、互いに非難しあうばかり。ついには我先に背を向けて離脱する。
独りグルカシュのみはおおいに奮闘していたが、やがて支えきれなくなって遁走する。かくして「神聖にして常勝のハーン」と称するシノンの軍勢は、開戦早々に中央は突き破られ、天兵と恃む右翼もまた崩れたのである。
(注1)【あれが神風将軍か】もちろんギィはアステルノを昔から知っているが、戦場でその用兵を見たのは初めてである。
(注2)【山塞で一蹴した】第二 九回①、第二 九回②参照。