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草原演義  作者: 秋田大介
巻一一
611/783

第一五三回 ③

ガネイ天真の情理を推して弁護に努め

ヒィ釈明の内実を測りて罪尤(ざいゆう)を決す

 ガネイと入れ替わるように報告に来たのは小白圭シズハン。間諜の効が徐々に浸透して、敵兵の間に動揺が広がっていることを伝える。


 中でも覚真導師の正体がヒィ・チノに私怨あるブルドゥン・エベであったことは、将兵に疑義を抱かせるに十分であった。


 ひととおり報告を終えたところで、先にガネイが訪れた経緯(ヨス)を聞くと笑いながら言うには、


「妖豹姫には、話がややこしくなるから婚約のことはまだ知らせないほうがよいと言ってあったのですが」


 するとインジャは、


いや(ブルウ)。むしろそのことがあったから、話に(クチ)が感じられたのかもしれぬ。何とも不思議な(オキン)であることよ」


 シズハンは莞爾と笑って、


「もう娘という(ナス)でもないですけどね。ハーンや私と変わらぬ(注1)はずですよ」


 インジャは意表を衝かれて、


「では三十(ゴチン)を超えていたのか。まるで判らなかった。ところで、イドゥルドというのは司命娘子の(デウ)とか。幾つほど離れているのかな」


 何げなく尋ねたところ、


「それが……。十年ほど前(注2)、族長(ノヤン)になったときは、まだ後見が必要なほど年少だったようですから、二十歳になるやならずやといったところかと」


 ますます憮然たる様子で、


「ええと、それはまた何とも稀有な……」


 言い(よど)んでいると、シズハンがすかさず諫めて、


「ハーン、妖豹姫にそのことを訊ねてはいけませんよ」


「あ、ああ(ヂェー)、わかった。……念のために聞いておくが、もしうっかり口にしたら」


「怒るでしょうねえ。これ以上ないくらい」


 ぐっと睨まれたインジャは、やや気圧(けお)されつつ、


「……であろうな。自戒しておこう」


 (オモリウド)を押さえて言ったが、この話はここまでにする。




 ガネイは、ほどなくイドゥルドを伴って帰ってきた。その日数から看るに、逡巡することなく身ひとつで(トイ)を離れてきたようである。


 ベルグタイもまた間に合った。ショルコウは末席に控えて、青い(ヌル)(ニドゥ)を伏せている。


 幕舎(チャチル)中央(オルゴル)にはもちろんヒィ・チノ。左右にはインジャたちもずらりと並んで、どうなるかと見守っている。まずはガネイが進み出て言った。


「早かったでしょう。ちゃんと連れてきたよ」


 ヒィ・チノは黙って頷く。ギィが代わって、


「ではイドゥルドとやらを中へ」


わかった(ヂェー)。入っていいよ!」


 振り返ってひと声かければ、やがておずおずと一人の若者(ヂャラウス)が現れる。顔は真っ青で、膝ががくがくと震えている。


 それでも何とかガネイの傍ら(デルゲ)に達すると、がばと平伏して(コセル)(マグナイ)を擦りつける。身体(ビイ)の震えは治まるどころか、今や全身に及んで音を立てそうなほど。


 ガネイはその(ムル)静か(ヌタ)(ガル)を置いて言った。


「心配ない、みんないい人だよ。あなたのハーンも今は怖い顔をしてるけど優しい方だよ」


 そして気遣わしげな視線を向けて、自身で言葉(ウゲ)を発するのを待つ。座の誰も(アマン)を開かない。しばし沈黙の(とばり)が下りる。


 ショルコウははらはらして落ち着かない様子だったが、ついに辛抱しきれなくなって何か言おうと顔を上げたところ、先んじてガネイが言うには、


「自分で言わないといけないよ。イドゥルドの(セトゲル)を一番わかってるのはイドゥルドなんだから。ほら、みんな待ってる」


「……ああ(ヂェー)


 やっとのことで言う。そして平伏したまま、虫の羽音のような(ダウン)ながら訥々(とつとつ)と述べはじめた。


「……申し訳ありません。(ゆる)されざる大罪を犯したこと、十分に承知しております。私はまことに無能(アルビン)愚昧(ハラング)でした。怪しげな教説にまんまと欺かれたばかりか、こともあろうにハーンに入信を勧めたこと、深く羞じております。(ようや)くかの妖教が人衆(ウルス)(そこ)ね、ハーンを(おとし)めるための妄言であることを覚りました」


 ヒィ・チノはなおも黙っている。そこでナユテが尋ねて、


「ふうむ。それで?」


「そ、それで……?」


 イドゥルドは愕然として顔を上げる。目は飛び出さんばかりに見開かれて、口をぱくぱくさせるばかり。


「えっと……」


 するとガネイがその手を取って、


「心配ない。まだ最後まで言い尽くしてないんだもの。あなたのハーンはちゃんと待ってくれてるよ」


 ふううと深く息を吐くと、何ごとか思い当たったらしく、


「よ、妖教に惑わされて務め(アルバ)(なげう)った(注3)のみならず、南伯……、いや(ブルウ)、シノンが叛いたときにも帰参せず、心ならずもハーンに刃を向けたこと、万死に価します。すべて自らの愚かさがもたらした罪、ただただ伏してお詫び申し上げるほかありません。いかなる罰も甘受して、決してハーンを怨むことはございません」


「……それよ」


 ヒィ・チノが初めて口を開いた。続けて言うには、


「俺が本心(カダガトゥ)から怒ったのは、お前の無能に対してではない。弱い心に流されて眼前の苦難(ガスラン)を逃れんとし、また不義を疑いつつも叛徒に(くみ)して、自ら判断するのを怠ったことだ」


 イドゥルドは赤面して再び平伏する。

(注1)【ハーンや私と変わらぬはず】インジャは西暦1184年生まれ。このときは1217年に当たるので、三十三歳ということになる。


(注2)【十年ほど前】イドゥルドが族長(ノヤン)に就任したのは西暦1206年。第四 七回②参照。


(注3)【務めを(なげう)った】禁教令に窮して南伯に投じたこと。第一四八回①参照。

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