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草原演義  作者: 秋田大介
巻一一
607/783

第一五二回 ③

カノン北原を()して黒鉄牛に護られ

ガネイ朗報を(もたら)して神道子に(なら)わんとす

 果たしてダルハン・バイン・ハーンの下に集ったのは、七万騎になんなんとする大兵力。これを統制するため、営長の五十人(タビン)に一人を団長に任じ、さらにその中から方将を選んで一万騎(トゥメン)を率いさせることにした。


 しかしその大半は小部族(ヤスタン)(ノヤン)、万騎を自在(ダルカラン)に操れるわけではない。混血児(カラ・ウナス)ムライが言うには、


「かまうものですか。大兵をもって雪崩のごとく(ブルガ)を呑み込んでしまえばよろしいのです」


「それでハーンに通用しようか……」


 ムライはぴくりと(フムスグ)を上げて、


「ハーンは貴公ではありませんか」


「そうであった。すまぬ」


 シノンの心中には、決戦を前に胆勇と怯懦が入り乱れる。何より不安は、南伯のころと変わらず、麾下に信頼(イトゥゲルテン)ある部将が皆無だったことである。


 謀臣としてはムライを得たが、副将となるとあえて名を挙げても僅かにジェジュとイドゥルドがあるばかり。とはいえ、ともに万騎を託す才覚(アルガ)は認めがたい。


 よって敵に倍する兵力がありながら、例えば一軍を分けて敵の側背を(おびや)かすといったような策戦を採ることができない。全軍を己の下に集めて使うほかない。


 シノンとてもとは小部族(ヤスタン)の長である。ところがなぜかテンゲリは、この男にだけ余りある用兵の才を賦与した。今となってはそれが幸か不幸かも判らない。


 せめて笑面(だつ)ヤマサンが傍にあれば、とシノンは切望する。そうすれば己が二人いるようなもの。兵の半ば(ヂアリム)を託して、あとは(まか)せておけばよい。よほど光都(ホアルン)より招こうと思ったが、前にムライに(はか)ったところ、


光都(ホアルン)は後背の要。笑面獺殿のほかに誰に預けられましょう」


 たしかにそのとおりだったので、爾来辛抱して言わぬことにしている。


 そうこうするうちに北原の友軍(イル)が敗れたとの報が入る。ヒィ・チノはインジャと併せた約四万騎をもって渡河を試みていると云う。


 いよいよこれを迎撃するに当たって、戦地の選定、将兵の配置、兵站の確保などなど、何ごとも独りで決めなければならない。眠る間もないほどの多忙(ザウグイ)を極める。


 しかもそこにムライがやってきて、


「私は中原に渡って、ドルベン相国(サンクオ)援軍(トゥサ)を求めてまいります」


 そう言ったものだから、シノンは愕然として、


「これからますます多事多端のときに、お前までいなくなっては私は誰を(たの)めばよいのだ!」


「覚真導師は兵衆の(セトゲル)(つか)んでおり、知恵もあります」


 シノンは思わず、


「愚かな! あれはただの巫者(ボエー)、兵事をともに語ることはできぬ!」


 これを聞くと眉を(しか)めて、


「ハーン、発言(ウゲ)にはお気をつけください。我が兵の大半は青袍(フフ・デール)の徒。導師を(そし)ったことが知れたら、惑いますぞ。俚諺にも『綸言(りんげん)汗のごとし(注1)』と申します」


「……わかった(ヂェー)


 しぶしぶながら頷くほかない。かくしてムライもまた去る。やむなく覚真導師やら大伝師やら方将やらを軍議の場に加えてみたが、みな壮語するばかりでものの役に立たない。


 シノンはハーンとして君臨しながらますます孤独の感を深めたが、この話はここまでにする。




 さて、インジャたちは無事にアステルノと合流(ベルチル)して渡河の算段に入る。通天君王マタージ、豬児吏トシロル、霖霪(りんいん)駿驥(しゅんき)イエテンの三人が大ズイエの上流で造った舟を繰り出して、次々と人馬を運ぶ。周到な準備にナルモントの諸将はおおいに感嘆する。


 全軍が南岸に達すると、(エルギ)を離れて(トイ)を構える。決戦に備えて策を練り、英気を養っているところに妖豹姫エミル・ガネイが到着したとの報を受ける。


 きっと朗報をもたらしたに違いないとて早速引見すれば、ガネイは三本の(ホロー)を折って言うには、


「みんなにみっつ(ゴルバン)の報せがあるよ!」


 相も変わらず邪気のない様子に、インジャは微笑を(たた)えて、


「みっつも! 何かな。良い報せだとよいが」


「もちろん良い報せだよ。きっとみんな喜ぶよ」


「ではひとつずつ聴かせてもらおうか」


 ガネイは得意げな様子で、


「神道子の言った(ウネン)の天導教について広めること、順調に進んでいるよ。(ブスクイ)たちはもうほとんど天導教を信じちゃいない。夫や兄弟を止めようとしてあちこちで言い争ってる。軍中にも迷ってる(ブステイ)がたくさんあるよ」


「それはよかった! で、ふたつ目は?」


 ヒィのほうに向き直ると、(ニドゥ)を輝かせて言うには、


(ヂェウン)のハーンに頼まれていた、鳳毛麟角さんのいるところが判ったよ!」


 ナルモントの諸将は、おおっと嘆声を挙げて身を乗り出す。


「鳳毛麟角さんは光都(ホアルン)の地下牢にいる。ある人が教えてくれたんだよ。優しくてとてもいい人だよ」


 楚腰公サルチンが唸り声を挙げて、


「まさか同じ光都(ホアルン)(とら)われていたとは……。まるで気づかなかった」


「しかたないよ。楚腰公さんたちが捕まってしばらくしてから移されたんだから。それまではイルシュ平原近くで青袍の徒に監禁されていたんだよ」


 まずはみなツジャンの(アミン)があったことに安堵する。所在が判ったからには、何としても救出することを考えなければならない。


 ガネイは莞爾としたまま座っている。ナユテが(いぶか)しく思って、


「おい、妖豹姫。報せはみっつじゃなかったか。もうひとつは?」


 と、途端にガネイは(ヌル)を真っ赤にして身を(よじ)る。これにはみなわけがわからず呆気にとられる。

(注1)【綸言(りんげん)汗のごとし】綸言は皇帝の言葉。汗が一度出たらもとに戻せないように、皇帝の言葉も発せられたら取り消すことはできないという意味。

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