第一五〇回 ④
ヒィ・チノ回廊に伏甲を帥いて賊魁に迫り
マタージ東原に風説を撒いて天兵を生む
またも大敗を喫したヒィは、何とかケルン・カンやモゲトと合流してひと息吐く。オハザフでは埋伏の毒に中たり、ウルヒンでは天兵が現れるという予期せぬ奸計に苦杯を嘗めた。しかしヒィ・チノは、
「天兵? あれが天兵なものか。どうやらシノンの叛乱は、かなり前から周到に企図されていたようだ」
ワドチャがおおいに憤慨して、
「まったくです。忠順なふりをして、肚に叛心を練っていたとは恕せませぬ」
ところがショルコウは首を傾げて、
「まことにそうでしょうか」
「ん? 司命娘子はそうは思わぬのか」
ヒィの問いに答えて、
「はい。隻眼傑独りで、ここまでの大略を成しえたとは信じられませぬ。私の感じたところを正直に申し上げれば、隻眼傑すら駒のひとつに過ぎないのではないかと」
「何と。ではこの大乱には影の首謀(注1)があると?」
「はい。妄想と言われれば、しかと反論はできませんが」
「ううむ」
唸ったのはヘカト。発言するかとみな待ってみたが、何も言わない。ヒィが尋ねて言うには、
「では司命娘子の看たところ、真の敵は誰だ」
「もちろん確証はありませんが、かくもありとあらゆる謀計を尽くして、しかもそれらをすべて成就させられるものなど、草原に幾人もおりません」
「すると……」
「はい。ヤクマンの相国、四頭豹ドルベン・トルゲのほかには考えられません」
これには夫のケルンが異を唱えて、
「なぜ遠いヤクマンの相国が? 俺にはさっぱり解らぬ」
「四頭豹が仇敵としているのは義君ジョルチン・ハーン。これと争うために東原を欲しているのです」
「ではハーンがジョルチ部に交誼を求めたために……」
「いえ、違います」
ショルコウは即座に強く否定すると、続けて言うには、
「……会盟より遥か昔日から、牙を研いでいたのです。我々がどれだけ無智で蒙昧だったことか。何も気づかず、何も備えずにいたから今日の苦境に至ったのです。もはや四頭豹の謀計そのものを禦ぐことはできません。眼前の難題をひとつひとつ潰していくしかありません」
「四頭豹の悪名は轟いていたが、なるほど、恐るべき狡知だ。だが俚諺に『疾風に勁草を知る(注2)』と謂う。俺はこれしきの逆境に屈するものではない。必ずや捲土重来して版図を復してみせよう」
みな頷いて志を同じくしたが、くどくどしい話は抜きにする。
年が明けて、牛の年となった。ヒィ・チノが北原で新年を迎えるのは、実に三年ぶりのこと。
前回は北伐にてセペート部を滅ぼしたばかりで、帰投したケルンを北伯に任命してショルコウを嫁がせた(注3)。あれから僅か三年しか経たぬというのに、今や版図の大半は失われて狂信の徒が猖獗を極める有様。
北原における悟天将軍ザシン、護教将軍チャクバルの叛乱も平定の目算が立たない。追えば隠れ、退けば現れ、ひとたび干戈を交えれば喜んで死地に投ずる狂人の群れ。奔命に疲れて東原の回復どころではない。
ともすれば挫けそうになる諸将を励ましてヒィ・チノが言うには、
「義君を見よ。父を討たれ、徒手空拳から身を起こして今日の勢を築いたのだぞ。それに比べれば、我らの苦難など何ほどのことがあろう」
ショルコウはまた夫ケルンに言った。
「北原こそ再起のための柱です。神箭将が健在であることを内外に示すうちに、必ず北道を辿って義君の援兵が来ます。それまでともにハーンを翼けましょう」
かくして主従一丸となって北原の西半を死守する。そうこうするうちに次第に風の向きが変わりはじめる。四頭豹の策謀に翻弄され、防戦一方だったヒィ・チノに少しずつ朗報がもたらされるようになる。
その嚆矢となったのは光都に関するもの。
先にインジャが命じてサルチンとコテカイの救出に送り込んだジュゾウたちが、鮮やかに任務を果たして中原に帰還したのである。殊にクミフとシャイカは異能を存分に揮って(注4)、おおいに活躍した。
二人を迎えたインジャは、おおいに喜んでこれを労った。サルチンはマシゲル部に在る蓋天才ゴロに託し、コテカイはカノンに預けて休ませる。またナユテ、ジュゾウらを激賞したのはもちろんである。
さて、ここでナユテが言ったことから、神箭将を苦しめる妖教についに撞着(注5)を見出だし、人衆の蒙を啓くべく策を運らせることになるわけだが、所詮は急造の欺瞞に満ちた偽りの信仰、真の智慧に敵うはずもない。
俗に謂う「闇から生まれる光はない」とはまさにこのこと。果たしてナユテは何と言ったか。それは次回で。