第 二 回 ② <エジシ登場>
ハクヒ朝に城外に学士に面会し
ムウチ夜に夢中に天王に拝謁す
太陽が漸く城壁の上に顔を出したころ、ハクヒは学究庵の前に立っていた。門を敲くと、白袍を纏った童が出てきて、
「誰だい?」
ぞんざいに尋ねる。
「ハクヒと申す。エジシ先生はおられるか」
「ついさっき出ていったよ」
「どちらへ行かれたかわかるか」
「釣りに行くって言ってたけど」
「釣り? どちらへ」
「西門から出てまっすぐに行けば会えるだろうよ」
「ありがとう。ではそちらへ行ってみよう」
「行かなくても昼過ぎには戻るけど」
「急いでいるんだ」
辞して一旦クウイの家に戻り、馬に騎って出直すことにした。西門を抜けて駆けること数里(注1)も行かぬうちに、一人の商人に出会った。
「これ、エジシ様をご存知ないか」
「へぇ、あちらの方がそうでございます」
指すほうを見れば、石の上に一人の男が座っている。商人に礼を言っておもむろに近づくと、男はつと立ち上がって言うには、
「何か私に御用でも?」
見れば、年のころは二十七、八、身の丈は七尺二、三寸(注2)、蓬髪にして痩身、鷹のごときただならぬ眼光を備えた白面の書生、これぞ名高きタムヤのエジシ。
ハクヒは馬を降りると、拱手して言った。
「お初にお目にかかります。ひとつお願いの儀があって訪ねてまいりました」
なおも述べんとするのをさっと制して言うには、
「そなた、フドウの御仁であろう」
「ど、どうしてそれを? いかにも私はフドウのハクヒと申します」
面食らっていると、エジシは呵々と笑って、
「昨夜天文を観ますに、フドウの運気が卒かに衰えた様子。されば近々どなたか見えるに違いないと思っておりましたところ、何やらこんなところまで私を訪ねる方がある。それでもしやと思っただけのこと、お気を悪くなさらんでください」
これにはすっかり感嘆して、
「いや、とんでもないことです。まったく恐れ入りました」
「いったい何があったのです。事の次第によってはできるだけ力になりますが」
「それは心強いお言葉。実は……」
とて顛末を詳しく話せば、深い溜息を吐いて上天を仰ぐと、
「そうだったのですか……。わかりました、どうやらフウ様に借りを返すときが来たようです」
「おお、それでは……」
声を震わせるハクヒに、力を込めて言うには、
「及ばずながら、フドウのために尽力いたしましょう」
「おお、ありがとうございます! 暗闇に光を見た心地でございます」
とてその場に平伏する。あわててこれを助け起こすと、
「面をお上げください。これも全てテンゲリの定めです」
二人はしばらく話し合って別れたが、この話はこれまでとする。
街に戻ってエジシの言葉を伝えると、ムウチもおおいに喜んだ。一行は早速荷物をまとめてクウイ夫妻のもとを辞し、学究庵に向かった。
門前にはエジシ自らが待っていて一行を迎える。それぞれ挨拶をすませると、主客分かれてささやかな宴を張り、夜が更けるまで飲んだ。席上、エジシが言うには、
「私はこのタムヤを治めるタロト部のハーンと親しくしておりますので、何の心配も要りません。夫人は安心して健やかな子を産んでください。用があれば、隣の婆さんに何でも言いつけてくだすってかまいませんよ」
一同心より感謝したのは言うまでもない。ハクヒは心中思うに、
「これで夫人が男児を産めば言うことはない。女児が生まれたときは何かうまい方策を考えねばなるまいが、エジシ様は天文に長じておられるゆえ、ひょっとしたら御子がどちらかご存知であるやもしれん」
そこでエジシが厠に立つ機会を捉えて、あとを追う。出てくるなり問いかけて、
「エジシ様! 御子は男女いずれでありましょう」
突然の問いに驚きつつも、気分を害した様子はなく、
「おやおや、それはテンゲリの定め、生まれてくるまで判りませんな」
それでもハクヒは諦めず、その場にがばと平伏すると言うには、
「エジシ様は天文に長じておられる。現に私が伺うのもわかっておいででした。ゆえにきっとご存知のはず。我が氏族が再興するか否かが懸かっております。何とぞお聞かせください!」
エジシはしばらく黙っていたが、やがて口を開いて言うには、
「はっきりしたことは申せませんが、フドウの星はいまだ光尽きておりません。加えてこれを護るように幾つかの星が廻っております。その動きを覩るに、フドウはまだまだ消えはしないでしょう。きっと男子が生まれ、氏族を再建すると考えてよいかと思います」
「お、おお、それは真ですか」
愁眉を開くハクヒをそっと制すると、
「言ったはずです。はっきりしたことは申し上げられぬと。天文は単なる徴に過ぎません。フドウの将来は、あくまでハクヒ殿らの手に懸かっておりますぞ。そのことをくれぐれもお忘れなきよう」
「肝に銘じまする」
二人は何ごともなかったように席に戻って再び歓談に興じたが、この話はこれまでとする。
(注1)【里】草原の一里は、この時代約800メートル。ただし地域によって差があり、統一されるのはインジャが全土に駅站を布いてからである。
(注2)【七尺二、三寸】一尺は約23.5センチ。一寸はその十分の一。よって七尺二、三寸は170センチ前後となる。ただこれも里と同じく地域差があり、統一されるのはインジャの覇権確立後である。