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草原演義  作者: 秋田大介
巻一〇
598/783

第一五〇回 ②

ヒィ・チノ回廊に伏甲を(ひき)いて賊魁に迫り

マタージ東原に風説を()いて天兵を生む

 茫然自失のシノンに、鋭鋒が迫る。


「シノンさえ討てば、あとは何万いようと烏合(エレムデク)の衆(・ヂェムデク)だ! とにかくシノンを討て!」


 ヒィ・チノの叱咤が飛ぶ。おおうと応えて、()り抜かれた三千騎はまっしぐらに大将旗を指す。近衛(ケシク)たる黒袍軍(ハラ・デゲレン)主君(エヂェン)を守ろうと群がるが、鎧袖一触、片端から()ね返される。先まで(サーハルト)にあったムライは、忽然と姿(カラア)を消している。


 シノンの命、旦夕に迫ったかというそのとき、わっという喊声とともに大勢の兵衆が割って入ってくる。隊伍(ヂェルゲ)も何もなく、身を(なげう)つようにしてひたすら(ヘレム)となったのは、やはり青袍(フフ・デール)の徒。シノンへの僅かな忠心(シドゥルグ)と、余りある死への憧憬が、彼らを死地に駆り立てる。


 おそらく正規の黒袍軍だけでは、ヒィ・チノの奇襲を止められなかっただろう。狂信の徒の身命を顧みない無謀の挺身がなければ、シノンの大望はここで(つい)えていたに違いない。


 しかし現にヒィは(フル)を止められた。こうなるとときが経つほどに数の優劣が()いてくる。ヒィ・チノは舌打ちひとつすると、


「惜しい。及ばなかったか。退くぞ」


 逡巡することなく撤退を決めて、(サルヒ)のごとく去る。進むも鮮やかなら、退くも鮮やか、我に返ったシノンが追撃の準備を整えるころには(セウデル)もない。


 この戦闘(カドクルドゥアン)での損害は軽微だったが、改めて神箭将(メルゲン)と戦うことの容易ならざるを知ったシノンは、一旦兵を収めてイルシュへ帰った。


 ヒィはオインハムにてワドチャらと合流(ベルチル)する。


「ご無事でしたか」


 迎えたワドチャに言うには、


「当然だ。もう少しで叛徒(ブルガ)を討つことができたのだがな」


「こんな危ないことは自重してください」


 するとヒィはからからと笑って、


「言ったろう、寡兵には寡兵の利点があると。我らは敵に気づかれずにこれを襲った。そのままシノンを討てればよし、さもなくんば好きなときに退く。危ないことなどあるものか」


「しかし……」


長者(バヤン)はまだ悟っていないようだな。まことに(あや)うかったのはお前だぞ。俺はオインハムの一万騎(トゥメン)(おとり)にして敵を誘いだしたのだからな。シノンが怠りなく警戒していたら、奇襲を諦めたかもしれない。そのときはお前がここで数万騎の敵を迎撃せねばならなかっただろうよ」


「えっ……」


 ワドチャは二の句が継げない。


「だがやはりシノンには(おご)りがあるようだ。ミュルケン回廊に(モル)を採るのは俺と同じ(アディル)だが、俺ならもたもたせず速やか(クルドゥン)に駆け抜けただろう。次はシノンも警戒するはず。俺もまた敵を討つ千載一遇の好機(チャク)を逃したってわけだ」


 そう言うと笑いながら去ったが、くどくどしい話は抜きにする。




 その後は互いに大きな会戦を避けて、局地での小競り合いに終始しながら(ナマル)を迎えた。賊徒は各地で勝利を収めて、ヒィに(くみ)するものは救援(トゥサ)もなく個々に敗れていった。


 ヒィとしても隔靴搔痒(かっかそうよう)(注1)、いかんともしがたい。逃れてくるものを収容しつつ、絶えず移動(ヌーフ)しながら時宜を待つほかない。


 シノンと天導教による東原支配は着々と進んでいるように見えた。版図(ネウリド)八つ(ナェマン)の教区に分け、八人の大伝師を代官(ダルガチ)としてこれを治めさせる。覚真導師ブルドゥン・エベは太師となり、政事に深く容喙(ようかい)(注2)する。


 光都(ホアルン)の笑面(だつ)ヤマサンは、宰相には任命されなかった。代わりに光都公鎮南将軍となる。これはムライたちがヤマサンの才覚(アルガ)を恐れて、政権の中枢(ヂュルケン)に近づけないよう画策したためである。


 しかし当のヤマサンは気にした様子もない。兵備を拡充し、光都(ホアルン)の守備を固めることに専念する。二度ばかり嫋娜筆(じょうだひつ)コテカイを訪ねたが、会うことすら(こば)まれる。


 それはさておき、先に金写駱(アルタン・テメエン)カナッサ、のちに雷霆子(アヤンガ)オノチから東原の急を告げられた義君インジャは、すでに出陣の準備を整えるよう命じていたが、いよいよ諸将を集めてヒィ・チノ救援の策を(はか)る。


 通天君王マタージが進み出て言うには、


「シノンは青袍教なる妖賊と結んでいるとか。その信徒たちは風説や予言(ヂョン)を好み、怪しげな言説にも流されやすくなっているに違いありません。そこで私に策がございます」


 インジャが喜んで続きを(うなが)せば、


「東原に噂を広めるのです。『テンゲリに(よみ)された真のハーンには、西(バラウン)から天兵の助力(トゥサ)がある』と。そこに義兄が兵を(ひき)いて現れれば、人衆(イルゲン)はおおいに驚いて、神箭将こそ真のハーンであると思うでしょう」


 百万元帥トオリルが首を(かし)げて、


「そううまくいくでしょうか。何よりまず北道(ホイン・モル)を確保して、援兵を送るほうが重要なのでは……」


「もちろんそのとおりだが、東原の人心を(つか)むことができれば、その後の(ソオル)を有利に進めることができる。敵の結束(ヂャンギ)(くさび)を打つこともできようというもの」


 インジャが言った。


「祭祀や信仰に詳しい通天君が言うのなら(まか)せてみよう。来春には出陣する。功を奏すればよいが」


「お(まか)せください」


 マタージは自信満々で請け負ったが、この話はここまでとする。

(注1)【隔靴搔痒(かっかそうよう)】靴の上から(かゆ)いところを()くように、ものごとが思うようにならず、もどかしいこと。また、ものごとの核心や急所に触れることができずに、はがゆくじれったいこと。


(注2)【容喙(ようかい)】横から口を出すこと。

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