第一五〇回 ②
ヒィ・チノ回廊に伏甲を帥いて賊魁に迫り
マタージ東原に風説を撒いて天兵を生む
茫然自失のシノンに、鋭鋒が迫る。
「シノンさえ討てば、あとは何万いようと烏合の衆だ! とにかくシノンを討て!」
ヒィ・チノの叱咤が飛ぶ。おおうと応えて、選り抜かれた三千騎はまっしぐらに大将旗を指す。近衛たる黒袍軍が主君を守ろうと群がるが、鎧袖一触、片端から撥ね返される。先まで隣にあったムライは、忽然と姿を消している。
シノンの命、旦夕に迫ったかというそのとき、わっという喊声とともに大勢の兵衆が割って入ってくる。隊伍も何もなく、身を擲つようにしてひたすら壁となったのは、やはり青袍の徒。シノンへの僅かな忠心と、余りある死への憧憬が、彼らを死地に駆り立てる。
おそらく正規の黒袍軍だけでは、ヒィ・チノの奇襲を止められなかっただろう。狂信の徒の身命を顧みない無謀の挺身がなければ、シノンの大望はここで潰えていたに違いない。
しかし現にヒィは足を止められた。こうなるとときが経つほどに数の優劣が利いてくる。ヒィ・チノは舌打ちひとつすると、
「惜しい。及ばなかったか。退くぞ」
逡巡することなく撤退を決めて、風のごとく去る。進むも鮮やかなら、退くも鮮やか、我に返ったシノンが追撃の準備を整えるころには影もない。
この戦闘での損害は軽微だったが、改めて神箭将と戦うことの容易ならざるを知ったシノンは、一旦兵を収めてイルシュへ帰った。
ヒィはオインハムにてワドチャらと合流する。
「ご無事でしたか」
迎えたワドチャに言うには、
「当然だ。もう少しで叛徒を討つことができたのだがな」
「こんな危ないことは自重してください」
するとヒィはからからと笑って、
「言ったろう、寡兵には寡兵の利点があると。我らは敵に気づかれずにこれを襲った。そのままシノンを討てればよし、さもなくんば好きなときに退く。危ないことなどあるものか」
「しかし……」
「長者はまだ悟っていないようだな。まことに殆うかったのはお前だぞ。俺はオインハムの一万騎を囮にして敵を誘いだしたのだからな。シノンが怠りなく警戒していたら、奇襲を諦めたかもしれない。そのときはお前がここで数万騎の敵を迎撃せねばならなかっただろうよ」
「えっ……」
ワドチャは二の句が継げない。
「だがやはりシノンには驕りがあるようだ。ミュルケン回廊に道を採るのは俺と同じだが、俺ならもたもたせず速やかに駆け抜けただろう。次はシノンも警戒するはず。俺もまた敵を討つ千載一遇の好機を逃したってわけだ」
そう言うと笑いながら去ったが、くどくどしい話は抜きにする。
その後は互いに大きな会戦を避けて、局地での小競り合いに終始しながら秋を迎えた。賊徒は各地で勝利を収めて、ヒィに与するものは救援もなく個々に敗れていった。
ヒィとしても隔靴搔痒(注1)、いかんともしがたい。逃れてくるものを収容しつつ、絶えず移動しながら時宜を待つほかない。
シノンと天導教による東原支配は着々と進んでいるように見えた。版図を八つの教区に分け、八人の大伝師を代官としてこれを治めさせる。覚真導師ブルドゥン・エベは太師となり、政事に深く容喙(注2)する。
光都の笑面獺ヤマサンは、宰相には任命されなかった。代わりに光都公鎮南将軍となる。これはムライたちがヤマサンの才覚を恐れて、政権の中枢に近づけないよう画策したためである。
しかし当のヤマサンは気にした様子もない。兵備を拡充し、光都の守備を固めることに専念する。二度ばかり嫋娜筆コテカイを訪ねたが、会うことすら拒まれる。
それはさておき、先に金写駱カナッサ、のちに雷霆子オノチから東原の急を告げられた義君インジャは、すでに出陣の準備を整えるよう命じていたが、いよいよ諸将を集めてヒィ・チノ救援の策を諮る。
通天君王マタージが進み出て言うには、
「シノンは青袍教なる妖賊と結んでいるとか。その信徒たちは風説や予言を好み、怪しげな言説にも流されやすくなっているに違いありません。そこで私に策がございます」
インジャが喜んで続きを促せば、
「東原に噂を広めるのです。『テンゲリに嘉された真のハーンには、西から天兵の助力がある』と。そこに義兄が兵を帥いて現れれば、人衆はおおいに驚いて、神箭将こそ真のハーンであると思うでしょう」
百万元帥トオリルが首を傾げて、
「そううまくいくでしょうか。何よりまず北道を確保して、援兵を送るほうが重要なのでは……」
「もちろんそのとおりだが、東原の人心を把むことができれば、その後の戦を有利に進めることができる。敵の結束に楔を打つこともできようというもの」
インジャが言った。
「祭祀や信仰に詳しい通天君が言うのなら委せてみよう。来春には出陣する。功を奏すればよいが」
「お委せください」
マタージは自信満々で請け負ったが、この話はここまでとする。
(注1)【隔靴搔痒】靴の上から痒いところを掻くように、ものごとが思うようにならず、もどかしいこと。また、ものごとの核心や急所に触れることができずに、はがゆくじれったいこと。
(注2)【容喙】横から口を出すこと。




