第一五〇回 ①
ヒィ・チノ回廊に伏甲を帥いて賊魁に迫り
マタージ東原に風説を撒いて天兵を生む
さて、神箭将ヒィ・チノは、造反した隻眼傑シノンの兵とオハザフ平原にて相対した。兵力の劣勢も何のその、互角の戦闘を繰り広げる。
やがて勝機を見出したヒィが、果敢に突撃を試みたそのときである。敵中より卒かに銅鑼の音が轟きわたり、鏑矢はひゅうひゅうとテンゲリを翔ける。
するとどうしたことか、麾下の兵衆の一部が俄かに叛して打ちかかる。ヒィ軍は大混乱に陥って戦どころではない。そこに攻勢を受けて一瞬に崩れる。堪らずヒィも離脱して、およそ三十里も退く。
勝ったシノンは喜びにうち震えて、ムライらの勧めるままにハーンを僭称、「ダルハン・バイン・ハーン(神聖にして常勝のハーン)」となった。
それを聞いたヒィは、
「シノンめ、さては浮かれたか。戦は巧者だが、感性は鈍いと見える。酷い名だ」
そう言って反攻に着手する。三千騎を選抜すると、長者ワドチャの諫止も聞かずに言うには、
「ここで捷報を待っていろ。寡兵には寡兵の利点があるのだ」
やむなくワドチャは、鉄面牌ヘカトとともにオインハム平原に円陣を布いて、堅く守りを固める。ヒィ・チノは神行公キセイを呼んで言った。
「我らの本隊とも言える一万騎がオインハムにあることは、早晩シノンも探知する。さすれば大軍を発してこれを討たんとするだろう」
「はい」
「そのときシノンは必ずミュルケン回廊を通る。俺ならきっとそこを通るからだ」
「…………」
「そう不審げな顔をするな。理に基づいて考えればそうなるのだ。しかしひとつ難点がある。その回廊の中途にあるトゥルイドル谷は、伏勢を置くには格好の地なのだ。よってシノンは回廊を通過する前に、必ずここに伏兵がないか探査する。そこでお前の任務だ」
キセイはいまだヒィの意図が解らない様子。ヒィ・チノは言った。
「かの谷に潜み、シノンの斥候が去ったら俺に報せろ」
「承知」
「俺はそれを聞いたらすぐにトゥルイドルに伏せる」
一方のシノンは、ヒィの息を止めんとて五万騎を帥いて出陣する。ほどなくオインハム平原に一万騎が布陣していることを知って、小躍りして軍を進める。混血児ムライに言うには、
「オインハムなら、ミュルケン回廊を通るのがよい。道程が近い上に、丘陵の狭間を行くため、敵の視界に入りにくい。ただ……」
「ただ?」
「トゥルイドル谷には留意したほうがいい。もし敵がこちらの動きを察知したときは、必ずここに兵を伏せるはずだ」
「すぐに査べさせましょう。ここに伏勢なきときは……」
「然り。我らの接近に備えていない、ということだ」
果たして伏兵はなかった。シノンは天佑とて雀躍して、
「いよいよ敵を根絶やしにしてくれる」
そう言って兵をミュルケン回廊に入れる。あわてることもなくのんびりと兵を進めて、ついに中軍はトゥルイドル谷に至る。前軍はとうに通過して、先頭はそろそろ回廊を抜けるころ。シノンは左右を見回して思うに、
「やはり天下の飛虎将といえども、運気が下がったときはその才覚も鈍るのだな。俺なら敵の動向から決して目を離すことなく、ここに兵を伏せて襲っただろう」
ふふんと得意になると、手を挙げて全軍に休息を命じる。自らも馬を降りて馬乳酒に口を付けた。
その瞬間、左右の丘の上に一斉に旗が林立する。はっと身構えるうちにもどっと敵兵が現れて、喊声とともに攻め下りてくる。
「敵襲! 敵襲!」
百人長たちが狼狽して叫ぶ。兵衆は右往左往して得物を執り、馬に乗ろうとして交錯する。戦列を整える暇もなく突入を許せば、瞬く間に四部五裂の様相、形名も分数も失われて混戦となる。
シノンもまた愕然としていたが、漸く我に返ると、
「さすがはヒィ・チノ、備えていたか」
さっと騎乗すると槍を掲げて周囲の兵衆を叱咤し、これを纏めようと試みる。ちょうどそこへ遠方から鋭く声がかかって、
「おお、シノン。そこにいたか! 親らお前の罪を問いに来たぞ!」
見遣れば、何とヒィ・チノ・ハーンが剣を掲げて、雑兵を薙ぎ払いながら一直線に向かってくる。
「おお、ハーン……」
思わず呟いて、今では敵となったヒィの英姿にうっかり見惚れてしまう。戦場で躍動する姿は、覇気が横溢して輝かんばかり。まさに神将。
身の危機にありながらも心奧から感動が込み上げてくる。指揮を執るのも忘れて、ただただ陶然として立ち尽くす。
「ハーン! どうしたのです、ご指示を!」
傍らからムライが迫るも、まるで耳に入らない様子。