第一四九回 ③
青袍の徒サトランを始めに一斉に蜂起し
南伯の兵オハザフに至りて互角に争闘す
両軍が初めて相見えたのは、オハザフ平原。ヒィの兵はやはり二万。叛乱軍はこれに倍する四万を揃えたが、本来は六万騎ほどの約会を画していた。
当初、シノンはヒィの兵略を十分に警戒して、すべての兵が揃うのを待つつもりでいた。しかし麾下の将兵の旺盛な戦意に押される形で戦地に臨んだ。
兵の練度や、百人長の質は、さすがにハーンの正規軍たるヒィ軍が卓れている。シノンに不安があるとすればそこだが、兵力、士気は圧倒している。進軍を決めたのは、この奔流のごとき勢いを殺してはいけないと考えたからである。
また通常、練度が劣る兵は、戦況が僅かでも不利になると持ち堪えられず、いかな大軍も瓦解してしまうものだが、こと青袍教徒はその懸念がない。死ねば別世での幸福が定められているので、敗勢になればなるほど喜んで敢闘する。
これは数で劣るヒィにとっては脅威だろう。鮮やかに勝てば勝つほど、死地を見つけた兵衆が突撃してくるのである。当然損耗は避けられず、やがて自らが背を向けざるをえない。
しかも青袍教徒は続々と補充できるが、ヒィには余剰の兵力がない。せいぜい北伯らと合流するくらいなもの。しかし北原にも悟天将軍をはじめ青袍軍は溢れている。つまりどう足掻いても、ヒィが兵の数で優位に立つことはない。
たしかに中原のインジャと会盟はした。危急の際には援兵を送ることも約した。が、シノンが思うに、かの大奸の真意は東原の併呑にあるのだから、わざわざ劣勢のヒィを援ける道理がない。
先にウリャンハタの北伐に与したのは情勢が有利だったからであって、道義を重んじたわけではあるまい。
まことにインジャを知るものならば、このような考えに至ることは決してなかっただろう。シノンは、果たしてその最期までインジャを理解できずに終わる。
話が先走りすぎた。今はまだオハザフ平原に相対したところ。インジャの義侠心もすぐには発揮できぬ。ヒィとシノン、二人の英傑による余人を交えぬ対決。
好天の下、両軍は陣を布く。広く伸びやかに兵を展開したのは、もちろん叛乱軍。前軍は闘志を漲らせる青袍教徒。中軍にはシノンとムライがある。イドゥルドも兵を与えられて一翼を担う。
対するヒィは、まずは堅陣を組んで敵の力を量らんとする。先鋒の任に堪えうるモゲトもケルンもここにはない。また兵の運用に熟達したツジャンもない。
あるのはヘカト、ワドチャ、キセイ、ゾンゲルなどであったが、いずれも将才には欠ける。よってセペート部を壊滅させた北伐のごとき自在の用兵は望むべくもない。
しかしヒィの将兵とて決して敗れるとは思っていない。なぜなら彼らの上に立つのは、軍神とも云うべき神箭飛虎将ヒィ・チノだったからである。
ともかく戦端は開かれる。勢いに任せた青袍教徒の一斉突撃が始まる。飛矢は驟雨のごとくテンゲリを覆い、喊声は雷鳴のごとくエトゥゲンを揺るがす。
たちまち乱戦となって、あるいは交わり、あるいは離れ、一個が押せば、一個が引く。進むものあれば、退くものあり、右が斃れれば左が救い、前が崩れれば後が補う。どちらが甲とも乙とも判然としない互角の争闘。
およそ一刻も闘い合ったところで、双方退いて戦陣を整える。互いに敵人が予想以上の難敵であることに驚倒する。
また機が熟して兵を進める。再び衝突すれば、さらなる激戦が繰り広げられる。屍は山となり、血は河となる。勝敗の帰趨はなお測り知れず、士気もまったく衰えない。ひたすら力を尽くして敵を退けんと奮戦する。
帥将たるヒィとシノンは戦局を睨みながら次々と手を打つ。ひとつの失策が命運を分けることを知っていたので、一瞬たりとも気を抜けない。
小さな変化が現れたのは二刻も経ったころ。叛乱軍の戦列に僅かな綻びが生じる。あまりに苛烈な戦闘に将が気後れしたのか、俄かに隊伍が乱れる。
ヒィは目敏くそれを見つけると、
「あれだ! 病大牛」
「はっ」
「参るぞ!!」
叫ぶや否や、馬腹を蹴る。連れて近衛の精兵がひと塊になって押しだす。脇目も振らず一直線に敵陣の急所に突き入らんとする。
一方、シノンもまた自軍の綻びに気づいた。顧みてムライに言うには、
「あれは……」
「イドゥルド隊かと」
「ちっ、豎子め。軍を毀つ気か」
するとムライが不敵に笑って、
「ご心配には及びません。このときのために敵中に策を施してあります」
「何だと?」
訝るうちにもヒィの近衛軍が猛然と迫るのが見える。しかしムライはあわてることもなく、さっと手を挙げて何やら命じる。
卒かに耳を劈いて銅鑼の音が轟きわたったかと思えば、ひゅうひゅうと幾筋もの鏑矢が放たれる。
するとヒィの軍中で顕著な異変が起こった。どうしたわけかたちまち陣形は大きく崩れて、どっと浮足立つ。シノンは瞠目して問う。
「あれはいったい……?」
「実はハーンの軍中にも、密かに青袍を纏うものが多々埋伏していたということです。合図とともに一斉に起つ算段となっておりました」
ヒィ軍は不意に自軍の兵から襲われて右往左往、誰が味方で誰が敵かも判然としない。これでは戦になるわけがない。もちろんイドゥルド隊を撃つどころではなく、己の命を守るのがやっとの有様。
シノンは隻眼を見開いたまま、ひくひくと頬を痙攣させて、
「は、は、はは。勝ったぞ。俺はハーンに勝った!」
震える声で言うと、すかさず総攻撃の令を下す。ヒィはたまらず潰走、散々に撃ち破られた。