第一四九回 ①
青袍の徒サトランを始めに一斉に蜂起し
南伯の兵オハザフに至りて互角に争闘す
神箭将ヒィ・チノは、南伯に任じた隻眼傑シノンの上奏におおいに気分を害したが、それでも変わらずこれを信頼していた。
わけのわからぬことを言うのは単に誤解や偏見があるためで、中原に遊んで義君インジャやその黄金の僚友と親しく交われば、すべて氷解すると考えていた。そこでとにもかくにもシノンを中原に遣ろうとて勅使を送ったのである。
混血児ムライが言うような「インジャと語らって、閣下を亡きものにせんとする奸計」などといったことは露ほども思わなかった。
ヒィ・チノの誤謬は、シノンを信頼するあまり、なぜ彼がそのような考えを抱くに至ったかについて、深く考えなかったことにあった。
鳳毛麟角ツジャンが健在であれば、南伯治下の牧地に目を光らせて、いずれムライの暗躍に気づいたかもしれぬ。
シノンを唆してハーンの禁教令を無視、あまつさえ天導教を公認して援助するなど、ツジャンが見逃すはずもない。しかし、いまだ消息不明なればどうにもならない。
そしてついにムライは囁いて言うには、
「古言には『先んずればすなわち人を制し、後るればすなわち人の制するところとなる』と申しますぞ」
この言葉にシノンは激しく動揺する。
また覚真導師をはじめ天導教のものは盛んに南伯を称揚して、東原の主たるよう説き続ける。中でもアケンカムを去って庇護されたイドゥルドは連日のように言うには、
「真のハーンたるシノン様が起てば、全土の青袍の徒が味方となります。さすれば現世に楽土を築くこともできましょう」
一方でムライは覚真導師と諮って伝師を各地に放ち、また営長には戦の準備を怠らぬよう戒めた。
そしてついにサトラン氏の信徒が先陣を切って挙兵に及んだのである。つまりはすべて四頭豹の策に従ってムライが整えたこと。計画は周到かつ緻密に練られており、全土の信徒が日を定めて次々と蜂起した。
今や憚ることなく青袍に身を包み、青い旗を掲げて貴族たちを襲撃しては火を放ち、馬や家畜を略奪する。女や子どもを攫い、老人を殺す。
あとはシノンが意を決して叛旗を翻すばかり。兵馬はことごとく揃って命が下るのを待っている。
オルドではサトランからの第一報を受けて対応を協議するうちにも、方々から救援を請う早馬が殺到する。どうやら版図の全域に亘って一斉蜂起の様相、さすがのヒィ・チノもすぐには手を打ちかねる。
神行公キセイに言うには、
「南伯に伝令。あれを中原になど遣っているときではない。すぐに兵を興して叛徒を討たしめよ」
ヒィは、ここに至ってもなおシノンを恃みとしていた。かの英傑の才幹と黒袍軍と称される精兵があれば、この前代未聞の危機もきっと越えられるはずであった。
実際、シノンは青袍教徒が挙兵したことを知った当初はこれを静観する気でいた。ハーンに叛くことにはなお逡巡があり、また青袍の徒を討つことにも躊躇があった。しかしムライが言うには、
「すでにハーンは閣下が乱の首魁であると見定めております。もはや留まることはできません。起って戦うか、座して死ぬか、ふたつにひとつです」
「……であるか」
果たしてキセイは間に合わなかった。シノンは反ハーンの旗幟を鮮明にして檄文を発し、天導教を奉じて東原を解放することを宣言してしまったのである。
黒袍軍を中核として糾合した兵力は三万騎。これに各地で決起した人衆を併せれば、数万からあわや十万にも達しようかという大軍勢となった。
道中でこれを知ったキセイはあわてて馬首を廻らし、オルドへ駆け戻る。南伯造反を報せれば、ヒィは思わず立ち上がって、
「それは真か!」
「はい! 三万騎をもってイルシュ平原に展開、楚腰道を断って北上の機会を窺っているようでございます」
「信じられぬ。まさか南伯が……」
「一刻の猶予もなりませぬ。早急にご指示を!」
ヒィは数瞬、頭を巡らせると、
「叛徒の用意は万全。先んじられた以上、このままでは戦えぬ。オルドを一旦、北方に退避する。諸方に伝令。できるかぎりの兵を集めて合流せよ」
約会の地にはタラントの西北、ズイエ河に臨む名もなき平原とした。いざとなれば河を押し渡って北伯ケルンと兵を併せることも視野に入れる。
またインジャの代官としてあった金写駱カナッサを、すぐに中原に返して急を報せる。雷霆子オノチは留まって助力する。
ヒィは移動の指揮を執りながら、次々と指令を出す。
「今日よりシノンの南伯の任を解いて『部族の敵』とする旨、広く知らしめよ。これを援けるものは必ず罰する。光都の楚腰公にも早馬を出せ」
準備の整ったものから北を指して発つ。規律も秩序もなく、とにかく迅速が優先される。「後るればすなわち人の制するところとなる」とはまさにこのこと。