第一四八回 ③
ヒィ青袍を禁じて北原に兵禍を招き
シノン讒謗を試みて河西に奸謀を疑う
ツジャン・セチェンの失踪に揺れるオルド。再び南伯シノンが現れたのは、漸く寒波がひと息吐いたある日のことである。心労のあまり憔悴したヒィはこれを喜ばなかったが、やむなく引見する。
二人が会うのは昨夏、すなわちジョルチとの会盟直後にシノンがやってきて、インジャを誹謗して以来である。以後もたびたび人を遣っては中傷を繰り返していたので、正直なところ、ヒィはシノンに対して怒りを覚えている。
シノンはシノンで、忠心より行っている進言が容れられないことにもどかしさを感じている。ジョルチとの会盟、君側の奸に対する信頼、禁教令、いずれをとっても部族のためにならぬとて焦っている。
互いに鬱屈を抱えつつ相対する。平伏するシノンに、ヒィが言った。
「呼んだ覚えはないが、いかなる用か」
顔つきは険しく、言葉には棘がある。平伏したまま答えて、
「どうしてもハーンに申し上げたきことがあって参上いたしました」
「……申してみよ」
「はい……」
舌で唇を湿すと、おもむろに口を開いて、
「臣は、身も心もハーンに捧げた忠実な狗でございます。これから申し上げることはすべてハーンのため、東原の人衆のためを思って申し上げることでございます」
「要点だけでよい」
「されば……」
つと顔を上げると、毅然たる様子で言うには、
「畏れながらハーンは恃みとするものを誤っておいでです」
「どういう意味だ」
「一に、ジョルチのインジャは豺狼のごときもの。東原を保たんとすれば、これと結んではなりません」
ヒィの表情はさらに険しさを増す。かまわず続けて、
「タロト、マシゲル、クル・ジョルチなど、インジャと結んだものは必ず衰え、版図を維持しているものはありません。いずれもインジャに膝を屈して臣従を強いられております」
たまらずワドチャが声を挙げて、
「それは違う! 彼らはみな……」
言いかけたのを制したのはシノンではなく、何とヒィ。言うには、
「最後まで喋らせてやれ」
やむなく口を噤む。シノンは揖拝してなおも言うには、
「義君の美名に欺かれてはなりません。インジャは草原を恣にせんとする大奸でございます」
「それで?」
「インジャは東原のためにこれを討たねばなりません。しかし、ハーンの近臣たちはきっと反対するでしょう」
またもワドチャが、
「当然だ! ハーン、かかる妄言につきあう必要は……」
「よい。最後まで、と俺は言ったはずだ」
「…………」
「そこで二でございます。今やハーンの傍にあるものは、ことごとくインジャに心を売った佞臣にして、恃むに足りませぬ」
居並ぶ諸将は瞬時に顔色を失う。狼狽したためではない。まったく身に覚えのない讒言に、憤怒のあまり血の気が引いたのである。
「みなインジャから莫大な贈物を得て、ハーンの進む道を誤らせようとしているのです。俗に『甘いのは毒、苦いのは薬』と謂います。佞臣どもはハーンを奥座に鎖し、甘言をもって耳目を掩わんとしています。さもなくんば、聡明なハーンが中原の大奸に親しむわけがありません」
ヒィは何を考えているのか、黙したまま。シノンはさらに声を励まして、
「三に、ハーンは遠くの大奸を恃んで、近くの人衆を蔑ろにしております。まことに恃むべきは東原の名もなき衆庶ではありませんか」
「何のことだ」
「近ごろハーンは天導教を禁ずる勅命を出されました。乱世に弄ばれる人衆の心の安寧をも奪うような施策は、仁君の業ではありません。天導教を盛んにせよとは申しません。しかしながら、迷える衆庶が救いを求めて縋るものを恕さぬというのは、民を慈しむ政道から遠いと言わざるをえません。ご再考ください」
そしてシノンは深々と拝礼する。ヒィはなおも黙っていた。長すぎる静寂。誰もが焦れていたが、声を発することはもちろん身動ぎひとつできない。
やっとヒィの口が開く。言うには、
「お前の言いたいことはそれで終わりか」
「……はい。『知りて言わざるは不忠』と謂います。そこでハーンの狗が衷心より申し上げました。何とぞ、何とぞお聞き届けくださいますよう」
心なしか後段は悲痛な声色すら帯びる。しかしヒィは一顧だにすることなく、
「その言うところは昨夏よりほとんど変わってないな。新しき知見もなかった」
「ハーン!」
ヒィは立ち上がると、シノンを睨みつけて、
「もうよい、南伯の考えはよく解った。俺がインジャや群臣に欺かれて民を虐げているかどうか、イルシュにて目を瞠ってよく視ておけ」
「ハーン!」
「下がれ。二度は言わせるな」
「…………」
実はシノンは相当な決意をもってここに臨んでいたが、果たして昨夏と同じく肩を落として退出せざるをえない。