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草原演義  作者: 秋田大介
巻一〇
587/783

第一四七回 ③

ヒィ・チノ(つい)に義君と結んで南伯妄言し

ムライ盛んに籌策(ちゅうさく)(めぐ)らせて妖賊跋扈(ばっこ)

 シノンが去ったあとのオルドは異様な空気に包まれた。誰もがたった今起こったことを量りかねていた。ヒィはそのまま諸将をも退かせると、側使い(エムチュ)も近づけずに黙考に入る。


 みな首を捻りながら去る。独り客人(ヂョチ)たるモルテは、真っ青な(ヌル)で誰かに何か告げようと逡巡していた。しかし思い直して黙って客舎へ帰る。


 彼女には気づいたことがあったが、東原の内実(アブリ)も知らぬ身とて遠慮したのである。もしモルテが慎み深い婦徳の主でなければ、のちの災禍は(まぬが)れたかもしれないがそれを言うのは酷というもの。


 一方、イルシュ平原に帰ったシノンは、すっかり打ちひしがれていた。買収された(とシノンは信じている)諸将はともかく、ハーンにも誠心(チン)が届かなかったからである。


 ムライがこれを励まして、


「やはり君側の奸がハーンの慧眼を曇らせているのです。これを救えるのはあなただけですぞ」


「恐るべきはインジャの奸計。ハーンはこの俺よりも彼奴を信じているようであった……」


「何の、至誠はテンゲリをも動かします。諦めずに上奏を続けられますよう。いずれ真の忠臣が誰か明らかになります」


 そしてインジャや、オルドの群臣たちを口を極めて(おとし)める。次第にシノンは(クチ)を得て言うには、


然り(ヂェー)。俺は謀計には屈せぬぞ。必ず真実(ウネン)を白日の下に(さら)して、奸物どもを駆逐してくれよう」


「その意気でございます」


 ムライは力強く頷いたが、それが果たしてシノンのためだったかどうか。


 以後、シノンはたびたび使臣を立ててはインジャを(そし)り、諸将について讒言(アダルガン)を繰り返した。ヒィは不快を催し、困惑し、ときに激昂(デクデグセン)したが、南伯を罪に問うほどのことはなく、いたずらにときは過ぎていった。


 ツジャンなどはもとよりシノンに(セトゲル)を許していなかったので、早急にこれを罰するよう正面から諫めたが、それもまた(うるさ)がられる。


 ヒィ・チノに巧みに(オロ)を伝ええたかもしれない女丈夫たち、すなわちショルコウやミヒチはすでに東原を去って、それぞれ北原、中原に在った。


 ヘカトは思慮には富んでいたが、元来寡黙である上にそもそも直属の家臣(アルバト)ではない(注1)ので、ナルモントの内情に口を挟むことはなかった。




 ミヒチとカノンの赴任に伴って中原に戻ったモルテは、さらに西原に帰る前にインジャに(まみ)えると、憂いを(たた)えて言うには、


(ヂェウン)のハーンのオルドに、いるはずがないものがいるのを見ました」


「と言うと?」


 答えて、南伯の傍に混血児(カラ・ウナス)ムライの姿(カラア)があったことを明かす。その人となりを告げて言うには、


「きっと善からぬ企みがあるに違いないのです。どうか東原の情勢から(ニドゥ)を放しませぬよう」


承知した(ヂェー)。よく教えてくれた。賢婀嬌(けんあきょう)の懸念、(エレグ)に銘じておく」


 とはいえインジャに何かできるわけでもない。代官(ダルガチ)のミヒチとカノンを呼んで尋ねてみたが、二人はムライのことなど知らなかった。


 南伯の版図(ネウリド)についてはシノンの専権下にあるため、ハーンですら詳細を把握していない。あとはヒィ・チノの才覚(アルガ)とテンゲリの加護に期待するほかない。




 (ナマル)になった。覚真導師の興した天導教、またの名を青袍教は、いよいよ信徒を増やしていた。ヒィ・チノよりシノンに近しい小部族(ヤスタン)は、その言説を喜んで(エチネ)でこれを(あが)める。


 天導教では信徒に青袍(フフ・デール)(まと)わせたが、小部族(ヤスタン)(ノヤン)など入信したことを公にしづらいものには、冠や袍衣(デール)の一部に青色(フフ)を用いるだけでもよいとした。


 教団の勢力は静か(ヌタ)に拡がり、次第にヒィ・チノ直轄の牧地(ヌントゥグ)をも冒していった。殊にセトゥ氏遺民(注2)など、近年冷遇されてきた氏族(オノル)(寒門)の人衆(ウルス)は、(こぞ)って天導教に入信した。


 覚真導師はこれら大勢の信徒を組織化する。二十戸をひとつの「営」として営長を置いた。またさらに布教を進めるべく「伝師」を育成して各地へ放った。盛んに言わしめたことは、


正法(ヂャサ)に殉じて死んだものは、必ず真天王がこれを憐れんで別世オエレ・イュルトゥンツに転生せしめ、永遠の幸福(モンケ・クトゥク)を得られよう」


 信徒たちは熱狂した。天導教の云う「正法」のために戦えば、死んでも別世で幸福になれるという教えは、いつ(ソオル)にて(アミン)を失うか知れない乱世において測り知れない魅力があった。


 また言うには、


偽り(クダル)の王のために(ウルドゥ)()るものは、テンゲリの加護なく、冥府(バルドゥ)にて永劫の苦行(モンケ・ガスラン)(さいな)まれよう」


 覚真導師の言う「偽りの王」とは、もちろんヒィ・チノを指す。寒門の民はそもそもこれを怨んでいる。よって(ガヂャル)(オス)が染みるように心を(とら)える。


 ヒィはもちろんのこと、オルドに仕える誰も気づかぬうちに、水面下で(ハラング)()(クイラン)が形成されつつあった。


 ある(ウドゥル)、信徒のもとを転々としている覚真導師を密かに訪ねたものがあった。それは何と、あのムライ。導師は門弟を遠ざけると、高き座(オンドゥル)より降りてその足下に(ひざまず)く。


「ムライ様、布教は順調でございます。次なるご指示を」


「ふっふっふ。もうすぐお前の積年の怨みを晴らすことができようぞ。では……」


 何ごとか(ささや)く。それから半刻もの間、こそこそと話しあったがくどくどしい話は抜きにする。

(注1)【直属の家臣ではない】ヘカトはサルチンを首班とする光都(ホアルン)の一党。ヒィ・チノの下にあって協力しているが、仕えているわけではない。


(注2)【セトゥ氏遺民】ヒィ・チノとハーンの位を争ったバヤリクトゥが率いていた氏族(オノル)。バヤリクトゥ誅殺後、氏族(オノル)は解体されて諸氏に分配されていた。第四 二回②参照。

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