第一四五回 ④
インジャ東西に友誼を求めて公道を通じ
ドルベン南北に奸計を策して謀臣を派す
年が明けた。猪の年である。東原に混血児ムライの姿があった。小スイシと同じ道を辿って、やはり南伯シノンを訪ねる。
「ははは、またヤクマンの相国が人を送ってきたらしい」
シノンは屈託なく笑ってこれを迎える。明らかに色目人の血が混じった容貌を珍しそうに眺め回しつつ言うには、
「寒風の中、わざわざやってきたからには、よほどの用があるのだろうな」
「はい、さすがは南伯。仰せのとおりでございます」
静かに答えて、あわてる様子もない。先に来た小スイシなるものと違って、過度に追従する風でもない。
「ほう。ならば聴こうではないか」
隻眼が光を帯びる。ムライは一礼すると口を開いて、
「古言に『知らずして言わざるは無能、知りて言わざるは不忠』と申します」
「ふむ」
「南伯に詳解は不要かと存じますがあえて述べれば、『主君が危地にあるのを知ることができない家臣には能力がなく、それを知って言わない家臣には忠心がない』という意味です」
「何が言いたい」
僅かに声が尖る。しかしムライは平然と続けて、
「もちろん南伯ほどの方が無能であるはずもなく、またハーンへの忠義に溢れていることは天下に知らないものはありません」
「回りくどいな。単刀直入に申せ」
「……はい。南伯は、中原にあるジョルチ部のハーンをどう思われますか?」
ぴくりと眉が動き、頬にすっと赤みが差す。それを知ってか知らでか、淡々と言うには、
「先には西原のカンと兵を併せてクル・ジョルチに攻め込み、近ごろでは東原のハーンとも誼を通じんとて人を遣ったとか。南伯も当然把握しておられるでしょう」
「……ああ」
「かのものに、決して心を許してはなりません。私ははるばるそれを伝えに参ったのです」
しばし黙して反応を窺う。シノンもまた無言でムライを睨みつけていたが、やがて言うには、
「やはり義君は警戒すべきか」
大きく頷いて、
「そのとおりでございます。かのものは義君などと称されておりますが、その実は美名に隠れて草原を併吞せんとする大奸人。彼奴はヒィ・チノ・ハーンを欺いて籠絡せんと画策しております。それも広大かつ豊かな東原を手に入れようとしてのこと。ゆめゆめ甘言に乗せられてはなりません」
「ううむ……」
「ところがヒィ・チノ・ハーンはこれを疑うことなく、進んで交誼を求めている様子。殆うきかな、殆うきかな。心あるものはみな東原の行く末を危ぶんでおります。それなのにハーンの周囲に侍るものは誰もこれを諫めようとしません。果たしてそのようなことがありえるでしょうか」
「というと?」
ムライは深く息を吸うと、やや声を落として、
「ひょっとするとご近臣の方々は、すでに贈賄によって変心しているのでは、と」
「何と!!」
驚いて思わず腰を浮かす。その脳裏に、先に白夜叉ミヒチが運んできた車一台の贈物が甦る。さては義君め、ハーンより先に重臣をことごとく薬籠中に納めていたか、とおおいに憤る。
すかさずムライが言うには、
「もはやハーンを翼けて東原を保ちうるのは、独り南伯あるのみかと存じます。余の群臣は恃みとするに足りません。南伯がジョルチン・ハーンの奸策を破り、その野望を挫かねばなりませんぞ」
シノンは頷きかけたが、ふと思い止まって尋ねた。
「待て。俺もたしかに義君とやらは世評ほどには信ずるに足らぬと考えてはいたが、ヤクマンの相国とて似たようなもの。お前が奸謀を携えてここに来たかもしれぬではないか」
動ずる様子もなく、
「おお、さすが南伯! やはり東原を救うのは貴君しかおりませぬ!」
「話を逸らすな」
「ではお聴きください。その人を判ずるには、世評や印象などはすべて拭い去るべきです。ただ過ぎし日の行動を観るのがよろしいかと。そこで義君とやらの今日までを顧みれば、一にかつての主君たる妖人ジェチェンが死ぬと、言葉巧みにタロト部を麾下に収めてしまいました。すなわち不忠」
ひとつ指を立てる。
「二に、ヤクマン部とは長らく小康を保っていたにもかかわらず、卒かにウリャンハタの叛徒と兵を併せて南原に侵攻しました。すなわち不義」
そして、
「三に、南征が頓挫すると人衆を休ませることもなく、すぐさま西原に兵を送って罪のないクル・ジョルチ部まで遠征しました。すなわち不仁」
総じて三本の指が立つ。
「いかがです? 不忠、不義、不仁。彼奴はいたずらに草原に乱を起こしては、版図の拡大を画していること明らかではありませんか。どうして東原だけが免れることができましょうか」
このことから、さすがの英傑の心も影に覆われ、疑心は暗鬼を生じてさらなる君臣の乖離を招くことになる。
また四頭豹の権謀が一手に留まるわけもなく、さながら水が岩を削るがごとく東原を四方から浸食していくのだが、果たしていかなる策謀が繰り出されるのか。それは次回で。