第一 五回 ② <アンチャイ登場>
ゴロ闇夜に襲われ転じて野盗と成り
アンチャイ好漢に救われ俱に獅子に見ゆ
さて、なかなか逃げる機会を見出せぬままにひと月が過ぎた。その間に、ゴロは持ち前の才覚と武術で、そうと望んだわけではないものの着実にジュドの信頼を得ていった。
それにつれてますます副首領とは溝を深めた。ゴロはまるで相手にしていなかったが、先方はことあるごとにゴロと張り合い、首領の気を惹こうと躍起であった。
ある日のことである。ジュドのもとにその副首領が目をぎらつかせて、にたりにたりと笑いながら現れた。
「首領、女を捉えましたぜ」
女と聞いてジュドの表情が変わる。野盗にあって好色でないものはない。
「おう、どんな女だ」
「あれは間違いなく高貴な家の女です。とびきりの上玉ですぜ」
ジュドは矢も盾もたまらず飛び出した。ちょうどそこに手下どもが女とその従者を後ろ手に縛って連れてくる。女の顔を見て、ジュドは目を瞠った。
肌は白く滑らかで玉璧のごとく、頬は赤みが差して紅梅のごとく、眼は潤いを湛えて清泉のごとく、唇は艶やかに濡れて桜桃のごとく、まことに艶かしくも清らかな花のような乙女。
ジュドはすでに鼻息を荒くして頬を紅潮させている。ゴロはそれを見て内心唾を吐いたが、彼の目から見てもその女は美しく可憐であった。
「よくやったぞ、早速我がゲルへ」
副首領がどうだと言わんばかりにゴロに一瞥をくれて、女のほうへ手を伸ばせば、怯えるような素振りを見せる。それがまた何とも愛らしい。
「ほらほら、何をしておる。疾くこちらへ」
ジュドが急かす。ゴロはふと女が哀れになって口を挟んだ。
「首領、お待ちなさい。この女はきっと並の女ではありません。おそらくは大部族の公女、それも族長格の家柄でしょう。いきなり手を付けるなどという無粋なことをせず、まずは出自など尋ねてみてはいかがでしょう」
副首領がぎろりとゴロを睨みつける。ジュドは早く女を我がものにしたくてたまらなかったが、ゴロの言うことももっともだと思ったので、尋ねて言うには、
「お前はどこの娘だ」
しばらく逡巡していたが、やがて意を決して口を開く。その声を聞けば、容姿に似合わぬ低く嗄れた声。それがまた悲歌の調べのように妖しくみなの心を打つ。
「はい。私は名をアンチャイと申します。父はベルダイ氏キハリ家の家長でございます」
それを聞いてみな一様に驚いた。キハリ家といえば、ベルダイ左派の首魁トシ・チノの片腕とも目される名の知れた大家である。
「な、なぜキハリの息女がこんなところに?」
思わずゴロが声を挙げる。その答えを聞いて、一同の驚きはさらに増した。何と言ったかと云えば、
「マシゲル部ハーンのご嫡子に嫁ぐ道中、卒かに襲われて捉えられたのでございます。衛兵はすべて逃げるか討たれるかしてしまいました」
ゴロが問いかけて、
「そのご嫡子というのは、マルナテク・ギィというのではないか?」
アンチャイははっとして顔を上げると、
「はい、そのとおりでございます」
ゴロは、ああと嘆じて上天を仰いだ。ジュドが訝しがりながら言った。
「誰だ、そのギィとかいうのは」
「マシゲル部の次代のハーンです。これはまずいことになりましたぞ」
「なぜじゃ」
「聞けば衛兵のうちには逃げたものもいるとか。それがマシゲル部に駆け込もうが、ベルダイに戻ろうが、どちらも手に負える相手ではありません。このままでは早晩必ず復讐の軍勢が至ります」
ジュドが次第に青ざめる。
「ひょっとすると、両者が兵を併せて押し寄せるかもしれません。美人に食指を動かしているときではありませんぞ」
もはやジュドはその気も萎えて震え出す。
副首領もすっかり肝を潰して立ち尽くす。
「ど、ど、どうすればよかろう」
ジュドの問いに腕を組んで熟考するふりをする。みな黙ってその言葉を待っていたが、ゴロは密かにこれを機にマシゲルに投じようとて思案を練っていた。やがておもむろに口を開くと、
「打つ手がないこともないのですが……」
「おお、さすがは知恵者と言われるだけのことはある。何でもするぞ」
「そのためには失うものがみっつありますが、果たして首肯なさるかどうか」
中途で口を濁せば、身を乗り出して続きを促す。応じて言うには、
「ひとつはこの女です」
一瞬、アンチャイはびくりと肩を震わせる。だが今やジュドは未練もなく、
「それは当然だ。かまわぬ」
内心ほっと息を吐きつつ続けて、
「次に、首領としての矜持。彼女を送り届けて丁重に謝罪しなければなりません。跪いて地に額を着けることができますか」
「ううむ、命に比べたら安いもんだ。よかろう」
やや躊躇いながらも断言する。ここでゴロは少し間を置いた。みな耳をすまして最後の条件を待つ。ゴロはやおら指を立てて静かに言った。
「最後は、この女を捉えた愚か者の首です」
これには誰もが跳び上がらんばかりに驚いた。ジュドは下唇を噛んで考え込む。
当の副首領は怒りと怖れで顔を赧くしたり蒼くしたりするばかり、何を言えばよいのか何をすればよいのか判らぬ様子。一斉に怒号が飛び交い、満場蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
ゴロは大喝した。
「静まれ! たかが首のひとつやふたつで騒ぐな。もしマシゲルとベルダイが軍を併せて攻めてくれば、それだけではすまぬぞ。お前らの首はことごとく胴を離れ、屍は丘を築き、血は河となるぞ。それでもよいのか」
漸くジュドは肚を決めた。
危険を察した副首領は、脱兎のごとく逃げ出そうとする。
「逃がすな! 首を獲れ!」
たちまち副首領は討ち取られた。その首がジュドの前に置かれたが、顔を背けて袋に入れるよう命じる。そしてゴロに言うには、
「これから謝罪に出向くわけだが、粗暴な連中を連れていくわけにはいかん。セチェンと呼ばれるお前がいれば心強い。同道してくれ」
ゴロは内心してやったり、神妙に頷いて承知する。ふとアンチャイを見れば、恩人に向かって深々と頭を下げる。ゴロは何だか照れてすぐに目を逸らした。