第一四四回 ④
ヒィ白夜叉に尋ねて義君の実を知り
シノン金写駱を縛して南伯の権を論う
しかしミヒチは毅然として言うには、
「南伯は我がハーンの意を躙って、中原との和を毀つおつもりか」
シノンも譲る気はないようで、
「主君の誤りを匡すのは忠臣の務め。中原は制するべき地であって、これと和するべきではない」
「南伯に独自のお考えがあるのはよろしい。しかしそれを決めるのはハーンです。己の思うところを通そうとて道理を枉げては、それこそ卑劣の謗りを免れますまい。ハーンに異を唱えるなら、直に訴えるべきです」
「何だと? 先からハーン、ハーンと、虎の威を借るか。女狐め」
ミヒチは心の中で、虎だろうが狼だろうが知ったことじゃない、借りられるものは何でも借りるさ、と毒づきつつ、
「忠臣であろうとなかろうと、誤りは誤りと言わねばなりません。南伯は誤っています」
「ふふん、その雄心は褒めてやろう。しかしイルシュではこの俺が法なのだ。『戦地に在っては君命も受けざるところあり』と謂うではないか」
と、ミヒチはぱんと掌を打ち合わせて、
「それです! それが南伯の誤りです。南伯がイルシュにて専権を振るえるのは、ハーンの絶大な信任と許可があってのこと。それをお忘れですか。翻って云えば、ハーンの許しがないことについては権限がないのです。それに……」
「それに?」
「私が聞き違えたのだと思いますが、まさかハーンの統治するこの版図を指して、『戦地』と称したわけではないでしょうね?」
シノンはしばし言葉を失う。ミヒチは黙って、じっとその顔を見ている。カノンやゾンゲルはどうなるかと手に汗握るばかり。カナッサは気を失っている。
やがてシノンが言った。
「女、名は何と云ったか」
「ミヒチ。人からは不本意ながら白夜叉と呼ばれています」
それを聞くと呵々と笑って、
「白夜叉か、言い得て妙だな。今日のところはお前の雄心と弁舌に免じて赦してやる。だが、俺の考えは変わらぬ。異を唱えるならハーンに直訴せよと言ったな。いずれそうしてやろう」
悠然と一礼して、
「お聞き届けいただき、ありがとうございます。では改めて失礼します」
そう言うとみなを促して退出する。ゾンゲルがカナッサを背負う。馬上の人となるや、あとも顧みずに遠ざかる。
しばらく行くうちにカナッサの意識が戻ったので、一旦馬を止めて休憩する。
「みなさん、すみません。私がいつもの癖で画など描きはじめたばかりに……」
恐縮してしきりに謝るカナッサをみなで慰め、むしろ客人を危ない目に遭わせたとて揃って頭を下げる。カノンはまったく怒りが治まらず、
「南伯は驕ってるよ。ハーンに告げたほうがよくないか」
「ううん……」
「金写駱じゃなかったら、この一件をもって中原との和親は潰えたところだよ。いくらハーンの寵臣とはいえ、これは分を過ぎてるじゃあないか」
「そうだねえ……」
「何だい、白夜叉。はっきりしないね」
するとやや言いにくそうにしながら、
「このことだけれども、金写駱さえよければハーンにも義君にも言わないでおいたほうがいいと思うのさ」
「どうして!?」
「……何となく」
カノンは瞠目して二の句が継げない。カナッサがあわてて、
「ぜひそうしてください! もとはといえば私の失策。無事に解放されたことですし、あえて風を起こさないですめば、それに越したことはありません」
「うひぃ! あのまじめな金写駱が!」
かくして四人はこのことは心の奥に秘め、誰にも言わぬことにした。
ここで道を分かって、カノンとゾンゲルは一台の車とともに光都に向かい、ミヒチとカナッサはオルドへ戻った。
カナッサはおおいに歓待されたあと、返礼の品々を託されて中原へと帰っていった。これには正使として神行公キセイが同行した。ミヒチはまた指名されるのではないかと兢々としていたが、ほっと胸を撫で下ろす。
それぞれ無事に辿り着いたが、くどくどしい話は抜きにする。
カナッサは中原に帰還すると、北原で描いた画をインジャに奉呈して鍾都や北伯夫妻について語り、ヒィ・チノの英明をおおいに讃えた。インジャは喜んでこれを賞し、キセイを厚くもてなした。
キセイが帰ると、霖霪駿驥イエテンを召して、カナッサとともに北道の整備を命じた。来年、北原にてヒィ・チノと会盟するためである。
また超世傑ムジカは独自に奔雷矩オンヌクドを東原へ遣って、ヒィ・チノとの旧交を温めるとともにジョルチとの修好を勧めた。旧知を見て、ヒィ・チノが喜んだのは言うまでもない。
こうして中原と東原の友誼は日に高まったが、独り南伯シノンのみならず、それを快く思わないものもあった。譬えて云えば、「隣家の羊が殖えても、我が子の腹は満たない」といったところ。
義君の勢いが盛んになれば必ずそれを妨げるのが四頭豹、不倶戴天の仇敵とはまさにこのこと。果たしていかなる策動が行われるか。それは次回で。