第一四四回 ②
ヒィ白夜叉に尋ねて義君の実を知り
シノン金写駱を縛して南伯の権を論う
ミヒチは外に出ると、ふうと大きく溜息を吐いておもえらく、
「ハーンが主星に遇うのはかまわないさ。義君に与するのは、その逆に比べたらよほどいい。ただねえ……」
客舎に向けて黙々と歩きながら、さらに思う。
「ただ、あの南伯がそれを恕すかどうか。そりゃハーンだって、獅子殿みたいにいきなり部族を挙げて臣従したりはしないだろうよ。でも……」
ふと立ち止まってテンゲリを見上げる。
「ハーンが義君に敬意を表して一歩譲る風を見せただけでも、南伯は肯じないかもしれない……。そのときは何が起こるか知れたもんじゃない」
はっとしてまた歩きだす。
「まあ、どうせ南伯を訪ねるんだし、ちょっと様子を見てみようかね」
ぼんやりと思考がまとまったところでどっと疲れが出たらしく、卒かに強烈な睡魔に襲われる。どうせ誰も見てないだろうとて、
「う、うーん。ふあああ」
両手を挙げて思いきり背を伸ばし、大口開けて欠伸した。
と、その背後から、
「姐さん」
呼びかけられたので、心臓が止まりそうになる。あわてて顧みれば、病大牛ゾンゲルがのそっと突っ立っている。瞬時に真っ赤になって、
「何でお前がそこにいるんだい!! 阿呆だね! びっくりするじゃないか!!」
大騒ぎでその肩を幾度も撲つ。ゾンゲルは「えへへ」と笑いつつ、
「帰りが遅いんで、心配して迎えにきたんですよ。客舎でみなお待ちですよ」
「うるさいね! 幼児じゃないんだから! もうお前という奴は!」
なおも撲ち続ける。ゾンゲルは避けるでもなくされるがまま。漸く言うには、
「姐さん、帰りましょう」
「わかってるよ。まったくお前のおかげで余計に疲れた。明日も早いからね」
「はい、姐さん」
ともども客舎に戻る。早々に眠りに就いたが、くどくどしい話は抜きにする。
明けて翌朝。すっきりと目覚めて旅装を整える。ヒィ・チノに挨拶して南へ向けて発つ。同行するのはゾンゲルのほかに、光都へ帰る一丈姐カノンと、金写駱カナッサの二人。
マシゲルのハリン、バラウン、ベルグタイの三人は、再び北の道を経由して中原に帰ることになった。すぐには別れがたかったが、来年の再会を約してやっとの思いで道を分かつ。
ミヒチたちは楚腰道を通って一路、南伯こと隻眼傑シノンの在るイルシュ平原を指す。道中は格別のこともなくアイルに到る。ゾンゲルを先に遣って来訪を知らせれば、すんなりゲルに通される。
しかしこれを迎えたシノンはやや意外そうな面持ちで、
「ご婦人たちがいかなる用件かな」
気のない様子で訊ねる。ミヒチが答えて、
「ハーンから南伯への贈物を持参いたしました」
すっと眉を顰めて、
「贈物? なぜ急にそのような」
おおいに訝しんで、僅かな喜色もない。愛想のない男だなどと思いつつ、贈物を運んできた顛末を略述する。するとみるみるシノンの顔色が変わる。どうしたことかと怪しんでいると、卒かに激昂して言うには、
「義君は財貨で人の心を買わんとするか! この隻眼傑が靡くとでも思ったか」
突然のことにさすがの白夜叉もわけがわからず、細い目を見開く。シノンは興奮が募ってさらに言う。
「我がハーンともあろうものが何という……。たかが車数台の贈物に雀躍しようとは。何と汚らわしい! 俺は受け取らぬ、持って帰れ!」
ジョルチン・ハーンの臣下であるカナッサは目を白黒させている。傍らのカノンが憤って何か言いかけたが、素早く制する。
ミヒチはシノンが昂るほどに冷静になり、今やよくよく観察を始めている。南伯ともあろうものが何をそんなに怒っているのか、見極めなければならない。とはいえ放っておくわけにもいかないので、
「これは我がハーンが南伯の労に報いるために運ばせたもの。もともとは義君に貰ったものかもしれませんが、由来などどうでもよいではありませんか。俗に『財貨に色なし』と申します」
しかし肯じることなく、
「同じことよ。我が忠心は財貨で贖われるものではないぞ。これは侮辱だ」
うっすらと眉を顰めて、
「ハーンがそのようなことを思っているわけがないでしょう。難しく考えすぎなのでは? 単なる好意の賜物ですよ」
「うるさい! 帰れ、帰れ!」
一向に聞く様子がない。まるで赤子のようなもの。