第一四二回 ③
インジャ盤天竜を敬して六条項を許し
ドルベン老大君を詐りて五百里を賜う
一方、ハレルヤたちに逃げられてしまったタルタル・チノはどうしていたかと云えば、いよいよヤクマンからの使者を迎えていた。
「おお、よくぞ参られた」
「大君の尊顔を拝し、これに勝る喜びはありません」
そう言って相対したのは、何と四頭豹ドルベン・トルゲその人。タルタル・チノは頬を綻ばせて言った。
「大族の相国が自ら来られるとは」
「私など取るに足らぬものではありますが、ヤクマンがダルシェを重んじている証のひとつにはなりましょう」
ますます上機嫌で、
「さてさて今日はどんな話を聴かせていただけるのですか」
四頭豹は悠揚迫らぬ調子で言った。
「大君のご英断によって、我がヤクマンに与していただけるとのこと。ハーンをはじめ、みなおおいに悦んでおります。そこで我々からダルシェに、ダナ・ガヂャルを含む方五百里(注1)の牧地を進呈することにいたしました。ご嘉納いただけますでしょうか」
それを聞いてタルタル・チノはおおいに驚き瞠目する。五百里四方と云えば、ヤクマンの版図の幾分の一かに達しようという広大な土地。
「それは真か! まことに方五百里もの牧地を……」
「ええ。たしかに五百里です。嘘は申しませぬ。ご満足いただけるでしょうか」
今や嬉しさを抑えることもできず相好を崩して、
「おお、おお! 爾後、ダルシェは相国の尖兵となって敵人を討ち果たしましょうぞ!」
「ありがたき言葉。では早速ともにテンゲリに誓いましょう」
タルタル・チノは大喜びでこれに応じる。四頭豹が率いてきた巫者が祭壇を築き、厳かに誓いの儀式を執り行う。ことごとく了えると、四頭豹が言うには、
「これで我らは晴れて盟邦となりました。先に大君は我らのために戦っていただけると申されましたな」
「然り。ダルシェに二言はない。何処なりとも赴きましょう」
「ありがとうございます。ならば『善事は矢のごとく』と謂います。精鋭を四千騎ほどお貸し願いたい」
「かまいませんとも。最も優れた兵を送りましょう。で、どこを攻めるのです?」
四頭豹はふふと笑って、
「あわてなさるな。まず良将を二名選んで、二千騎ずつに分けてください。その一軍は東方へ駆けて光都の対岸に布陣させます。もう一軍は北方へ走って、僭主ムジカのオルドを脅かしていただきたい。無論、我らもともに兵を繰り出します」
「ほほう、どちらもなかなかの難敵、相手にとって不足はありませんな」
「我がヤクマンと魔軍が手を携えたことを知れば、敵人は恐れ戦くこと疑いありません。この戦を機に両族の紐帯はますます固くなることでしょう」
タルタル・チノは喜び、また興奮して、
「おもしろい! 我らが組めば中原はおろか草原すべてを制覇することもかないましょうぞ!」
四頭豹はそれには応えずに話題を転じて、
「ではそれらの兵が約会の地に至るころに、改めて譲渡する牧地を知らせるための使節をお送りします。楽しみにお待ちください」
「おお。案ずるな、兵はすぐに送りますぞ。よって牧地の件、くれぐれもよろしくお頼み申す」
「承知しました」
四頭豹が帰ると、タルタル・チノは嬉々として派兵の準備を進めた。北方へは新たに大将となったガリドを、東方へは副将のトゥクトゥクを遣った。兵を送りだしてしまうと、あとは毎日にたりにたりと笑いながら使節の到来を待つばかり。
待ちに待った使節が現れたのは、およそひと月も経ったころのこと。やってきたのは四頭豹ではなく小スイシ。
覚えておられる方もあろうか、かつて赫彗星ソラの遠征に軍監として同行し、あれこれ口を出して策戦を妨げたあげく、ついにはこれを陥れた(注2)奸物。
タルタル・チノは何げなく、
「おや、今日は相国はいらっしゃらぬのか」
問いかければ、小スイシはにこりともせずに、
「相国はお忙しい。いつまでも貴君に関わってはいられぬ」
「はあ、何と……」
すると傲然として言うには、
「なぜ跪拝せぬ、無礼であろう。私はハーンの勅使として、貴君に牧地を下賜するためにはるばる来たのだぞ」
タルタル・チノは怒るよりも虚を衝かれて呆然となる。
「よいか、今や貴君はハーンの属臣である。これまでのようにはいかぬぞ」
漸く反発する心が生じたが、密かに「方五百里、方五百里」と唱えて堪える。上席を小スイシに譲り、自らはその足下に跪いて拝礼する。
小スイシはふふんと嗤って、さて何と言ったかと云えば、
「タルタル・チノ。貴君に与える地は以下のふたつ。ひとつはダナ・ガヂャルの周辺、二十五里四方の一角。もうひとつはそこから西北方、フンヂウレ山からチョル平原に至る百里四方の地だ。ありがたく拝領せよ」
これを聞いてタルタル・チノは驚愕する。がばっと顔を上げて、
「お待ちください! 私が聞き間違えたのでしょうか。勅使様は、『二十五里四方の一角』と『百里四方の地』とおっしゃいましたか」
冷眼にて見下ろしつつ、
「然り。何か?」
(注1)【里】一里は0.8km。よって五百里は400km。すなわち五百里四方の面積は160,000㎢。ちなみに二十五里(20㎞)四方の面積は400㎢、百里(80㎞)四方の面積は6,400㎢となる。
(注2)【赫彗星ソラ……を陥れた】第八 四回①参照。