第一四一回 ④
インジャ金写駱に命じて迎賓に任じ
セイネン黒曜姫を責めて紅涙を誘う
目を伏せたままシャイカが言うには、
「ダルシェの娘の中には、刺客として育てられるものもあって……」
タンヤンはおおいに驚いて、
「げっ! 魔軍はそんなことまでするのですか!!」
「……すみません」
ますます身を縮める。前を駆けていたセイネンが、聞き咎めて馬首を返すと、
「待った。その話を等閑に付すことはできん。刺客と明かしたものをハーンの傍に近づけるわけにはいかぬ」
ハリンは半ば呆れて、
「あんたもいちいちうるさい人だねえ。そういつも気を張ってたら疲れるだろう」
「何を言うか。当然のことだ」
「この黒曜姫が肚に刀を蔵しているって言うのかい」
「そこまでは言っていないが、ハーンの身に何かあってからでは遅い」
「ほとんど言ってるじゃあないか」
口論が始まり、シャイカはどうしてよいかわからずおろおろする。みないつの間にか足を止めてしまっている。そこへ変事を察したインジャが取って返して、
「何をしている。日が暮れてしまうぞ」
セイネンが眉を吊り上げて事の次第を告げれば、かぶせるようにハリンも声を挙げる。タンヤンはどうしたものか右顧左眄、ノイエンは急に備えて様子を窺っている。ところが話を聞いたインジャが言うには、
「そんなことか」
怒り心頭に発して、
「そんなこととは何ですか! このような不穏なものを……」
「私はとうに知っていたぞ」
「えっ?」
セイネンは言葉を失う。
「そもそも黒曜姫が、大君暗殺を己のこととして話していたではないか。お前は何を聴いていたんだ」
途端にしどろもどろになって、
「し、しかし、まさかこのような佳人が……」
「人の話は虚心で聴くものだ」
「……はい」
向き直って、悄然としているシャイカに言うには、
「驚かせて申し訳ない。私は黒曜姫を疑っていない。案ずるな」
「いえ、そんなもったいない……」
ますます優しい声音で、
「私が思うに、黒曜姫はあえて黒衣をもって白心を覆っているのであろう。その黒衣こそ優しい心性の証だ」
「ああ……」
ひと粒、ふた粒と涙が零れ、あわてて顔を背ける。口を尖らせて黙っているセイネンに、ハリンが言うには、
「あんたが泣かしたんだよ。謝りな」
「なっ! それは違うだろう!! ……いや、たしかに失礼なことを言った。黒曜姫よ、申し訳ない。心から謝る」
「いえ、ありがとうございます……」
「さあ、まことに陽が落ちては何にもならぬ。進むぞ」
インジャが促して、一同は再び馬腹を蹴る。以後は格別のこともなく、無事にケルテゲイ・ハルハへと至る。
獅子ギィは、まさかジョルチン・ハーン親ら来るとは想像もしていなかったので、跳び上がらんばかりに驚く。あわててハレルヤたちを呼びに遣り、諸将にも知らせて、側使いにすぐに羊を屠らせる。高き座をインジャに譲って平伏すると、
「まさかハーンがいらっしゃるとは。先に報せてくれれば、いろいろと準備いたしましたものを」
「ふふ、驚かせようと思ってな。それよりこちらに盤天竜殿が見えているとか」
「まもなくここに参るはずです」
「実は盤天竜殿に会いたい一心で、話を聴くやオルドを飛び出してきたのだ」
そしてこれと同盟を結ぼうという意図を告げれば、ギィもまた瞠目して、
「何とすばらしいご英断。我ら凡夫には思いも及びません。ハーンがダルシェを重んじること、かくまでとは」
「道々、同盟についていろいろと考えてきたことがある。盤天竜殿が了承してくれたらよいのだが」
「了承も何もすでに格別のご提案。これ以上何を求めましょうや」
「いや、私は彼らの窮状につけ入るようなことはしたくない。以後、末永く友好を築きたいのだ」
そうこう話しているうちにみな集まってくる。まずはマシゲルの好漢たちが左右の席に着き、いよいよダルシェの両将が招き入れられる。
巨躯を縮めて入ってきたハレルヤは、戸張をくぐったところでインジャの姿を認めると、一瞬動きを止めて目を瞠る。すぐに歩きはじめたが視線は外さない。そのまま正対して膝を突く。
続くメサタゲは、ハレルヤの所作がやや無礼ではないかと気が気ではない。面を伏せて進み、一歩下がったところで跪拝する。
インジャとハレルヤはしばらく互いの顔を見交わしていた。先に口を開いたのはインジャ。
「将軍、お久しぶりです」
「ええ。十数年ぶりといったところですか」
二人の頬には次第に笑みが浮かぶ。もとより互いにテンゲリの定めた宿星、多くの言葉は必要ない。
そこに側使いたちが酒を運んでくる。ハレルヤたちにも席が用意されて、まずは杯を満たす。草原では何を話すにも、これがなくては始まらぬ。
かくして、幾星霜を経て邂逅を果たした二人は数奇な宿運に思いを巡らせながら、あれこれと将来を諮ることになった。まさしく「士は己を知るもののために死し、女は己を悦ぶもののために容づくる」といったところ。果たして義君は、盤天竜に何と言ったか。それは次回で。