第一三九回 ②
メサタゲ陰かに刀剣を蔵して同胞を探り
シャイカ自ら犠牷と為りて弑虐を試む
そうこうするうちに十日ほどが経った。ハレルヤの傷はかなり癒えたが、それに伴ってタルタル・チノは再びその手足を縛っておくよう衛兵に命じた。
またこの三日ほどは食事は抜き、僅かな水しか与えなかった。ハレルヤは何を考えているのか、黙々と耐えるばかりで不平ひとつ口にしない。シャイカは密かにメサタゲを訪ねて告げた。
「ヤクマンの使者が来る日は近い。大君は盤天竜の処刑に備えて、これを弱らせようとしている」
「なるほど」
「あと数日も経てば、盤天竜は立つこともできなくなる」
「…………」
「今夜、決行する」
「承知」
夜になるとメサタゲは密かに準備を整えて、檻車の近くに身を潜めた。そっと窺えばハレルヤはまだ起きていて、檻車の端に凭れて虚空を睨んでいる。
また目を転じれば、大ゲルの戸張が視界に入る。周辺には数多の衛兵があってこれを護っている。
そこにおもむろに徒歩で近づくものがある。黒曜姫だった。息を詰めて彼女が衛兵と何ごとか話しているのを見守る。やがて戸張が開き、シャイカはその中へと消えていった。
シャイカは薄く化粧していた。戸張をそっと閉じると、高き座に向かって小趨りに進んで跪き、恭しく頭を垂れる。タルタル・チノは満足げに鼻を鳴らすと、左右の侍女に告げて言うには、
「お前ら、今夜は下がってよいぞ」
みな頷いてぞろぞろと退出する。ちらとシャイカを一瞥していくものもある。口を開くものはなかったが、いずれも興味津々の態。誰もいなくなると、タルタル・チノは舌舐めずりせんばかりの勢いで、
「黒曜姫、よく来たな。やっとその気になったというわけか」
応じて顔を上げたが、すぐに目線を逸らして、
「女に多くを語らせてはいけません」
小声で答えると、うっすらと耳まで染める。その可憐な様子にタルタル・チノは目を見開いて、俄かに息を荒くする。
「どれ、近く寄れ。こちらへ、さあ、こちらへ」
立ち上がると、すばやく手を取って寝台へと誘う。まずは並んで腰をかけて肩を抱く。今やすっかり興奮して、
「うむ、実に佳い女だ。わしはお前のような抱けば折れそうな女が好きなのだ」
とて黒衣の上からあちらこちらと撫でまわす。シャイカは身を捩って、
「困ります」
細く言えば、
「何を困ることがあるものか。お前が訪ねてきたのではないか。さあ、その黒い袍衣の中身を見せてもらうぞ」
両の襟を把んで、今にも左右に裂き破かんとする。シャイカはそっとその手に自らの手を重ねて、
「いけません。男の方が先に脱いでください」
襟にかかった指をひとつずつゆっくりと外す。そして寝台に膝を立てて、その背後に回ると言うには、
「私が脱がせてさしあげましょう」
タルタル・チノは大喜びで、だらりと手を下げてされるに委せる。まもなく上衣は解かれ、大きな背が現れる。シャイカはその背を左手で優しく撫でて、
「まあ、何と逞しい……」
嘆息しながら、右手を自らの懐中に滑らせる。そこから静かに取り出したのは例の鉄針。
そう、シャイカは自らの身を餌にタルタル・チノに近づき、これを暗殺せんと図ったのである。相手は背を向けており、己の右手にはすでに鉄針がある。そろそろと振り翳し、あとはひと息に振り下ろすばかり。
と、卒かにタルタル・チノが振り返った。
「おい! 何をしている」
先ほどまでのだらしない表情は一変、眉を吊り上げて、額には血管が浮く。
「あっ!」
シャイカは驚愕のあまり、一瞬硬直してしまう。
タルタル・チノはすばやく寝台から下りて向き直ると、猿臂を伸ばしてシャイカの右手首を制する。ぐっと力を込めれば、思わず鉄針を取り落とす。
「この女め、誰の指図だ。まさかこのわしを殺そうとは」
睨みつけて、ぎりぎりと手首を締め上げる。シャイカの細腕は音を立てて今にも折れそうになる。
「さあ、言え! 誰が命じた。叛徒は根絶やしにせねばならぬ。言え! 言わぬか!」
「…………」
痛みに悶えつつ、歯を食いしばって声も出さない。目は炯々として睨みつけている。タルタル・チノは激昂して、
「この小娘め! わしを侮るなよ。ただではおかぬぞ」
言うや否や、シャイカを寝台の上に押し倒して馬乗りになる。握っていた手首を放して、今度はその喉許を絞めあげる。
「ぐぅっ!!」
「どれ、言う気になったか!」
しかしその目に屈する色はない。タルタル・チノはますますいきり立って、
「お前は女だ。それを思い知らせてやる」
空いた右手が黒衣の帯に伸びる。シャイカははっとして身を固くする。ばたばたとあがくが、男の巨躯はびくともしない。
「ははは、かわいがってやるぞ!」
咆哮にも似た大声で言い放つと、かっと目を見開く。
その瞬間、シャイカの左手が一閃した。ばっと灰が舞う。
タルタル・チノはぎゃっと悲鳴を挙げると、両眼を掩って仰け反った。もしものときのために一握の灰を袍衣に隠し持っていたのである。
すばやく巨躯の下から両脚を引き抜いて、苦しむその額をどんと蹴れば、寝台の下に転がり落ちる。
「小癪な! 誰か! 刺客だ! この女を捕まえろ!」
滂沱と流涕しながら喚けば、戸張が開いて衛兵たちが飛び込んでくる。
寸時の猶予もなく、シャイカは脱兎のごとく駈けだす。まだ事態を把握してない衛兵が惑ううちにその脇をするすると走り抜けて、入れ違いに外へと飛び出す。