第一三八回 ④
ミヒチ黒曜姫に遇いて間を鏖殺し
タルタル盤天竜に怒りて之を鞭撻す
タルタル・チノはにたりにたりと笑いながら、
「実はな、前々から四頭豹より招撫の使者が来ている。ヤクマンに与すれば、ダナ・ガヂャルを含む広大な牧地をくれるとな」
「…………」
「さらに封爵の栄誉を賜り、ハーンの連枝(注1)として遇するという破格の扱いだ。どうだ、よい話ではないか。そろそろ我らも地に足を着けてもよいころだと思うのだが、盤天竜はどうじゃ」
つい口を開いて、
「……いえ、私はそうは思いませぬ」
「何だと!?」
タルタル・チノは否の返答などあるはずもないと決めつけていたので、かっと頭に血が昇る。
ハレルヤもあからさまに異を唱える心算ではなかった。それで黙っていたのだが、うっかり声を挙げて、しまったと臍を噛む。今さら撤回することもままならず「駆けだした馬からは降りられぬ」の俚諺どおり、意を決して、
「ダルシェは不羈の民です。甘言に踊らされて膝を屈すれば、たちまち力を失って大族に呑み込まれましょう。そうなれば調子の良い約定などすべてなかったことにされて、世間の嗤いものとなるは必至。どうかご再考ください」
今やタルタル・チノは怒りにわなわなと震えて、指を突きつけて言うには、
「こ、この恩知らずめ! わしがお前にどれだけ目をかけてやったか忘れたか。わしに逆らうことがどういうことか解っているのか!」
ハレルヤはむしろ落ち着いた様子で、これを正視して言った。
「ダルシェの尊厳を蔑ろにする提案に従うことはできません。族長こそ矜持を失われたか。大君の名が泣きますぞ」
「こ、こ、この豎子め! テンゲリをも畏れぬ暴言の数々、赦されると思うなよ。おい、此奴を捕らえろ!」
衛兵どもに命じたが、みなハレルヤの驍勇を熟知しているので、すぐには動けない。タルタル・チノはますますいきり立って、
「何をしておる! 疾く捕まえろ!」
衛兵はどうしたものか迷いながら恐る恐る近づく。ハレルヤはじっと座ったまま動かない。タルタル・チノをずっと睨んでいる。衛兵の一人が小さく声をかけて、
「盤天竜様、ご命令ですので……」
「うむ。やむをえぬ」
その膂力をもってすれば、彼らを蹴散らして逃げることもできたが、ハレルヤにとってみれば彼らも同胞である。タルタル・チノにはもはや従えぬが、余のものを傷つけるのは本意ではない。
手を後ろに回されて、これ以上ないくらい厳重に縛られる。両足首にも縄がかけられて何重にも結びあわされる。
「思い知るがいい。おい、此奴を鞭で打て!」
さらなる命令に衛兵は血の気を失う。ハレルヤの顔色を窺えば、小さく頷いたので恐る恐る、
「で、では、失礼して……」
二、三度背を打ったが、それを見たタルタル・チノは立ち上がって、
「ぬるい! 貸せ、鞭打ちとはこうやるんだ!」
衛兵から鞭を奪い取るや、大きな背を目がけて力いっぱい振り下ろす。たちまち衣服は裂け、皮が破れ、血が滲む。衛兵たちは目を背けて耳を掩う。
およそ二、三十ばかり打てばタルタル・チノの息は切れ、ハレルヤはぐったりと伏して動かなくなる。
「檻車に放り込んでおけ。いずれ処刑してくれる。そうだ、次にヤクマンの使者が来たときがよい。わしの意に逆らうとどうなるか、見せしめにしてやろう」
衛兵たちは数人がかりでその巨躯を抱え上げて檻車へと向かった。身をゆっくりと横たえると縄を解き、水やら食事やら薬やらを運んで、手厚く看護する。
「盤天竜様、お助けできず申し訳ありません」
一人の衛兵が言えば、嗄れた声で僅かに答えて、
「……俺が頑迷なのか。大君が正しいのか」
「いえ、そんな……!」
さらに続けて何か言いかけたが、すでに気を失っていたのでそれを呑み込む。
盤天竜ハレルヤ捕縛の報は、瞬く間に部族内を駆け巡った。ともにその経緯も知れわたったので、誰もがダルシェの行く末について考えることとなった。
すなわちこれまでどおり牧地を定めず誰にも属さないのか、それともヤクマンの誘いに乗って牧地を得てこれに与するのか。どちらにも情理があり、どちらにも利害があった。よって人衆の意思はおおいに割れた。
年長になればなるほどタルタル・チノに同意して、ヤクマンの招撫に応じようというものが多く、若い世代では従来の独立を維持しようという意見が主流であった。もちろん後者は大君を憚って声をひそめてはいたが。
黒曜姫シャイカは、進んで自らの考えを口外することはなかった。しかしとっくに心は決まっていた。
「盤天竜が正しい」
そこで何とか彼のためにできることはないかと思案した。傷の治療や食事については、同情した衛兵が密かに助力しているので心配ない。
シャイカのできること、それはひとつであった。実は考えるまでもないことだったが、ことの重大さにやはり熟慮せざるをえない。
周囲の喧噪にかまわず考えに考えて意を決したシャイカは、密かにハレルヤの檻車を訪ねた。ことが起こってもハレルヤが動けないのでは話にならない。
そっと様子を窺えば、いまだ傷は癒えず身動きもままならぬようであったので、声もかけずに立ち去る。
「焦ってはいけない」
あえて口にする。あれこれと準備を整えて機会を待たねばならない。タルタル・チノはヤクマンの使者を迎えて処刑を断行すると言ったらしい。ならば、それまで時日がある。
かくして一個の侠女の決心から力猛きものどもおおいに鳴動し、一個の天竜は鎖を解かれて広く草原に雄飛するということになる。まさしく「狗は飼うべし、竜は鎖すべからず」といったところ。
草原に冠たる雄族はいよいよ多岐亡羊の迷妄のうちにあり、いずれが是か非かまことに判じがたい。果たして黒曜姫は盤天竜のために何を為すつもりなのか。それは次回で。
(注1)【連枝】貴人の兄弟を指す譬え。ここではハーンの一門として待遇すること。