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草原演義  作者: 秋田大介
巻一〇
552/783

第一三八回 ④

ミヒチ黒曜姫に()いて(かん)鏖殺(おうさつ)

タルタル盤天竜に怒りて之を鞭撻す

 タルタル・チノはにたりにたりと笑いながら、


「実はな、前々から四頭豹より招撫の使者が来ている。ヤクマンに(くみ)すれば、ダナ・ガヂャルを含む広大(ハブタガイ)牧地(ヌントゥグ)をくれるとな」


「…………」


「さらに封爵の栄誉(フンドゥ)を賜り、ハーンの連枝(注1)として遇するという破格の扱いだ。どうだ、よい話ではないか。そろそろ我らも(コセル)(フル)を着けてもよいころだと思うのだが、盤天竜はどうじゃ」


 つい(アマン)を開いて、


「……いえ(ブルウ)、私はそうは思いませぬ」


「何だと!?」


 タルタル・チノは(ブルウ)の返答などあるはずもないと決めつけていたので、かっと(タルヒ)(ツォサン)が昇る。


 ハレルヤもあからさまに異を唱える心算ではなかった。それで黙っていたのだが、うっかり(ダウン)を挙げて、しまったと(ほぞ)を噛む。今さら撤回することもままならず「駆けだした(モリ)からは降りられぬ」の俚諺どおり、(オロ)を決して、


「ダルシェは不羈(ふき)の民です。甘言に踊らされて膝を屈すれば、たちまち(クチ)を失って大族に呑み込まれましょう。そうなれば調子の良い約定などすべてなかったことにされて、世間(オルチロン)(わら)いものとなるは必至。どうかご再考ください」


 今やタルタル・チノは怒り(アウルラアス)にわなわなと震えて、(ホロー)を突きつけて言うには、


「こ、この恩知らずめ! わしがお前にどれだけ目をかけてやったか忘れたか。わしに逆らうことがどういうことか解っているのか!」


 ハレルヤはむしろ落ち着いた様子で、これを正視して言った。


「ダルシェの尊厳を(ないがし)ろにする提案に従うことはできません。族長(ノヤン)こそ矜持を失われたか。大君(イェケ・アカ)の名が泣きますぞ」


「こ、こ、この豎子(ニルカ)め! テンゲリをも畏れぬ暴言の数々、(ゆる)されると思うなよ。おい、此奴を捕らえろ!」


 衛兵(ケプテウル)どもに命じたが、みなハレルヤの驍勇を熟知しているので、すぐには動けない。タルタル・チノはますますいきり立って、


「何をしておる! 疾く捕まえろ!」


 衛兵はどうしたものか迷いながら恐る恐る近づく。ハレルヤはじっと座ったまま動かない。タルタル・チノをずっと睨んでいる。衛兵の一人が小さく(ダウン)をかけて、


「盤天竜様、ご命令(カラ)ですので……」


うむ(ヂェー)。やむをえぬ」


 その膂力(りょりょく)をもってすれば、彼らを蹴散らして逃げることもできたが、ハレルヤにとってみれば彼らも同胞(イル)である。タルタル・チノにはもはや従えぬが、余のものを傷つけるのは本意(カダガトゥ)ではない。


 (ガル)を後ろに回されて、これ以上ないくらい厳重に縛られる。両足首にも縄がかけられて何重にも結びあわされる。


「思い知るがいい。おい、此奴を(タショウル)で打て!」


 さらなる命令に衛兵は血の気を失う。ハレルヤの顔色を窺えば、小さく頷いたので恐る恐る、


「で、では、失礼して……」


 二、三度(ノロウ)を打ったが、それを見たタルタル・チノは立ち上がって、


「ぬるい! 貸せ、鞭打ちとはこうやるんだ!」


 衛兵から鞭を奪い取るや、大きな背を目がけて力いっぱい振り下ろす。たちまち衣服(デール)は裂け、皮が破れ、血が滲む。衛兵たちは(ニドゥ)(そむ)けて(チフ)(おお)う。


 およそ二、三十ばかり打てばタルタル・チノの(アミ)は切れ、ハレルヤはぐったりと伏して動かなくなる。


「檻車に放り込んでおけ。いずれ処刑してくれる。そうだ、次にヤクマンの使者が来たときがよい。わしの意に逆らうとどうなるか、見せしめにしてやろう」


 衛兵たちは数人がかりでその巨躯を抱え上げて檻車へと向かった。身をゆっくりと横たえると縄を解き、(オス)やら食事(イヂェ)やら(エム)やらを運んで、手厚く看護する。


「盤天竜様、お助けできず申し訳ありません」


 一人の衛兵が言えば、()れた声で僅かに答えて、


「……俺が頑迷(コキル)なのか。大君が正しいのか」


いえ(ブルウ)、そんな……!」


 さらに続けて何か言いかけたが、すでに気を失っていたのでそれを呑み込む。


 盤天竜ハレルヤ捕縛の報は、瞬く間(トゥルバス)部族(ヤスタン)内を駆け巡った。ともにその経緯(ヨス)も知れわたったので、誰もがダルシェの行く末について考えることとなった。


 すなわちこれまでどおり牧地を定めず誰にも属さないのか、それともヤクマンの誘いに乗って牧地を得てこれに(くみ)するのか。どちらにも情理があり、どちらにも利害があった。よって人衆(ウルス)の意思はおおいに割れた。


 年長になればなるほどタルタル・チノに同意して、ヤクマンの招撫に応じようというものが多く、若い世代では従来の独立を維持しようという意見が主流であった。もちろん後者は大君を(はばか)って声をひそめてはいたが。


 黒曜姫シャイカは、進んで自らの考えを口外することはなかった。しかしとっくに(オロ)は決まっていた。


「盤天竜が正しい」


 そこで何とか彼のためにできることはないかと思案した。傷の治療や食事については、同情した衛兵が密かに助力(トゥサ)しているので心配ない。


 シャイカのできること、それはひとつであった。実は考えるまでもないことだったが、ことの重大さにやはり熟慮せざるをえない。


 周囲の喧噪にかまわず考えに考えて意を決したシャイカは、密かにハレルヤの檻車を訪ねた。ことが起こってもハレルヤが動けないのでは話にならない。


 そっと様子を窺えば、いまだ傷は癒えず身動きもままならぬようであったので、声もかけずに立ち去る。


「焦ってはいけない」


 あえて口にする。あれこれと準備を整えて機会(チャク)を待たねばならない。タルタル・チノはヤクマンの使者を迎えて処刑を断行すると言ったらしい。ならば、それまで時日がある。




 かくして一個の侠女の決心から力猛きものども(クチュルゲテン)おおいに鳴動し、一個の天竜は鎖を解かれて広く草原(ケエル)に雄飛するということになる。まさしく「(ノガイ)は飼うべし、竜は(とざ)すべからず」といったところ。


 草原(ミノウル)に冠たる雄族はいよいよ多岐亡羊の迷妄のうちにあり、いずれが是か非かまことに判じがたい。果たして黒曜姫は盤天竜のために何を為すつもりなのか。それは次回で。

(注1)【連枝】貴人の兄弟を指す(たと)え。ここではハーンの一門として待遇すること。

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