第一三八回 ③
ミヒチ黒曜姫に遇いて間を鏖殺し
タルタル盤天竜に怒りて之を鞭撻す
さて三人と別れたシャイカは、独り西に向かって駆けた。本来なら娘の一人旅は危険極まりないが、シャイカは気にしていない。恭倹な心性ではあるが、それと同時に己の異能にそれなりの自負がある。
ダルシェの男は幼いころから戦士として鍛えられる。寡兵をもって草原を自由に闊歩するためには一騎当千の精強さが求められるからである。
一方で女はどうあるべきかと云えば、もちろん健やかで強い子を産むことは賞賛される。しかし責務はそれだけではない。
才能を見込まれた女子は、特殊な訓練を経て、刺客として養育されるのである。誰がその課程を了えて刺客となりえたかは、部族の中でも一部のものしか知らない機密である。
シャイカは若くして最も卓れた刺客であった。容姿の嫋やかさも相手の警戒を弛める武器となった。とはいえ、いまだシャイカは部族のために誰かを殺したことは一度もない。
ダルシェは長らく刺客を養成してはきたが、そもそも戦でことを決する民だった。そしてこれまで、戦において他部族の後塵を拝することなどなかった。よってこれを用いる機会がなかったのである。
それをシャイカは不満に思っていない。いや、むしろ幸いであったと思っている。人の命を奪う恐ろしい技を知悉していながら優しい娘であった。どうせ技を使うなら、正しい人のためにと考えている。
先に遇ったミヒチたちは、なぜかは判らないけれども助けるべきだと直感した。なぜそう確信したのか、自身もずっと不思議に思っている。実はこれこそテンゲリの定めた宿運の為せる業だったのだが、無論当人の知るところではない。
あれこれつらつらと考えながら幾日も駆けているうちに、ダルシェの夏営地に帰り着いた。ぼんやりしながら遅足で馬を歩ませていると、
「おや、黒曜姫。戻ったのか」
声をかけるものがある。ふと見れば、そこには盤天竜ハレルヤの巨躯がある。ハレルヤは魔軍の大将、よってシャイカの秘密についても承知している。
「ええ。カオロン河の畔まで駆けて、いろいろ視てきました」
「ヤクマンの様子はどうであった」
「表向きは平穏です。四頭豹の統治はうまくいっているようです」
ハレルヤはふうむと唸ると、
「これから大君に復命するのか」
「ええ」
しかしハレルヤは去ろうとしない。黙ってシャイカの顔を見ているので、
「あの、何か?」
問えば、言い淀んでいたが、やっと言うには、
「正直なところ、黒曜姫はどう思う」
「どう、とは何のことでしょう?」
「近ごろの大君の……、いや、やめておこう。悪かったな、忘れてくれ」
「ええ、忘れましょう」
シャイカは一礼して歩を進める。その背をハレルヤはじっと見送ったが、この話はここまでにする。
大君ことダルシェの族長タルタル・チノは、魔軍に君臨すること三十年に及ぶ。漸く老境に至り、今では兵事についてはすっかりハレルヤなどに委せている。
しかし「チノ(狼の意)」と称される眼光の輝きは昔日のまま、跪拝するシャイカを睥睨しつつ言うには、
「そうか、四頭豹はやはり傑物だな。あれだけの大乱がありながら、僅かの隙もないか」
目を伏せたまま答えて、
「はい。私の見たところ以前よりも規律があり、兵は勁く、民は豊かです。もとよりヤクマン部は大族ですが、四頭豹が政柄を握ってから、さらに力を益したようです」
「なるほど、よろしい。ご苦労であった。おおいに参考になった」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。では……」
辞去しようとすれば、タルタルはそれを制して舐めるように眺め回すと、
「それにしても黒曜姫とはよく名づけたものだ。お前ならどんな男の傍にも容易く近づけよう。お前のような女は、あれのほうでもいろんな技があるのだろう。どうじゃ、それをちょっとわしに試してみぬか」
瞬間、シャイカの目はかっと瞋恚の色を帯びたが、その目を上げることなく静かに言った。
「お戯れを。大君の側にお仕えするなど畏れ多いことでございます。失礼します」
そのまま小趨りに退出する。その身が怒りに震えていたことにタルタル・チノは気づかない。しばらく思案していたが、側使いに命じてハレルヤを召す。
大君に呼ばれたハレルヤは、沈鬱な思いで足を運んだ。魔軍の大将として兵権を託されて数歳、一介の武人にも部族の将来について思うところはある。
ダルシェの根幹は、一定の牧地を持たず、草原を自在に往来することである。と、ハレルヤは考える。
誰とも組まず、誰にも属さない。独立不羈こそダルシェのダルシェたる所以であり、価値である。仮に誰かに与するとしても、その根幹を揺るがせてはならない。
大ゲルに入り、跪拝して挨拶すれば、タルタル・チノは顔を綻ばせて、
「おお、盤天竜。よく来た。お前に諮りたいことがある」
そら来たとハレルヤは思ったが、面には出さず、
「私ごときの鄙見がお役に立つのなら伺いましょう」
恭しく答える。
「ヤクマンを探らせていた間諜がさっき戻ってきた」
黒曜姫のことだと察したが、黙って続きを待つ。
「どうやらその勢いはいよいよ盛んだとか。いつまでもこれと争うのは賢明ではないとは思わぬか」
「…………」