第一 四回 ③
ヒスワ密かに感状を竄めて主人を陥れ
ゴロ敢えて大河に投じて神都を逃れる
一方、ヒスワは渡し場に放った小者からゴロの帰還を知らされて、小躍りして喜んだ。早速役所に出かけて捕吏の出動を要請する。それに応じて兵五十が駆り出された。ヒスワは不満そうに言うには、
「ゴロは何十人もの小者を従えております。道理の解らぬものが抵抗しては万が一ということがあります。そうなれば草原に奔って軍勢を連れて戻ってくるでしょう。それでは私が事前に謀叛を察知した意味がなくなるというもの、何とぞご考慮ください」
捕吏の長はなるほどと思い、兵を倍の百人に増やした。さらに万全を期してヒスワが言うには、
「ゴロが河を渡っている間に、隊伍を整えて城門のうちに伏せておくのです。奴が城門をくぐったところで左右から襲いかかれば、難なく捕らえることができるでしょう。もし取り逃がしたとしても河に行く手を阻まれます」
ここでも捕吏の長は感心して順うと、すぐに城門のうちに兵を伏せた。付近は通行を禁止して、あらかじめ混乱を防ぐ。
ヒスワはそれを確認すると、ミスクと高楼に登って見物することにした。その楼は、奇しくもコヤンサンが階段から転げ落ちた楼であった。
楼にはどこで知ったのか噂を聞いた連中が詰めかけ、常にもまして活況を呈する。観衆に混じってトシロルの姿もあった。今や手に汗握って見守るほかない。
ゴロは、身に迫る危険も知らずに渡河すると、小者に荷を背負わせて隊列を整える。そして列の最後尾から胸を張って城門へ向かった。
列の先頭が街に入る。そこでふとゴロは違和感に捉われた。
「静かすぎる……。いつもなら人が溢れているはずなのに、なぜだ?」
隊列の半ばが城門を通過したときであった。
突如周囲から、わあっという喊声が挙がる。
「何ごとだ!」
まだ城門に達してないゴロが叫んだ。小者が荷を放り出して後戻りしてくる。遥かに眺めれば、手に手に矛を振り翳した兵が迫り、追い着かれた小者が次々とその餌食となった。悲鳴とともに血煙と砂塵が巻き上がる。
「こ、これは……。トシロルの言葉は真だったか」
ありうべからざる事態に唇を震わせて、みるみる血の気が失せる。そのゴロを兵の一人が認めて叫んだ。
「謀叛人め! おとなしく縄を受けよ、逃れられんぞ!」
その声ではっと正気に返る。周りの小者がゴロを庇って、剣を手に走り出した。が、騎兵の前にことごとく蹴散らされる。
ゴロは背後を顧みた。そこには陽光を受けて輝くカオロン河が滔々と流れている。前には騎兵の群れ、後には大河、まさに進退窮まる。
ここで並のものなら諦めてしまうところだが、そこが若くして神都一の富豪となったゴロ・セチェンである。迷わず踵を返すと、追撃が迫る前にさっと河に飛び込んだ。
しかし流れが思いのほか急だったので、見る間に押し流されていった。岸に達した捕吏たちは、ゴロが血迷って自ら命を縮めたものとせせら笑った。彼らは引き返すと、ゴロは河に身を投げて死んだと報告した。
さて、高楼から様子を見ていたヒスワは、捕吏が隊商に襲いかかるのを見て舌打ちした。
「早い! あれでは奴に事態を悟る隙を与えるぞ」
すぐに主戦場が門外に移ったので、奸夫淫婦はただ手を拱いて結果を待つだけとなった。やがて兵が矛を収めて戻ってきたが、ゴロの姿がないことに気付いておおいにあわてた。
急いで楼を下りると、捕吏の長に成果を尋ねる。長は、ゴロがカオロン河の流れに呑まれた顛末を語り、おそらく助からぬだろうとて役所に帰ってしまった。
ヒスワは一時は安心したものの、ゴロが武芸水練に長じていたのを思い出して俄かに不安になった。そこで自らカオロン河の様子を見に行った。
なるほど水量も多く、その勢いたるやもしこれに飛び込めば水妖といえども助かるまいと思われた。それで漸く安堵の息を漏らし、今や我が家となったゴロの家に戻っていった。
ところが、さすがのヒスワもことの成就を焦ったか、いささか目が曇ったようである。
ゴロは、流されたものの死んではいなかった。日ごろから身体を鍛え、水練も怠らなかったため、下流に少し流されただけで何とか岸に上がることができた。
しかし手に得物はなく、懐に銀子はなく、あるものといえば父母から与えられた身体と、上天から与えられた智恵だけであった。
辺りに人影がないのを確かめると、その場にどっかと腰を下ろして熟考する。まず神都を離れなければならない。そのためには何とかしてカオロン河を渡る必要がある。
さすがのゴロも泳いでこの大河を渡るのは無謀だから、舟を得なければならない。舟を借りるには銀子が必要だが、一銭もない。剣があれば舟を奪うのだが、それもない。
あれやこれやと考える。うまく渡河できたとしても、そのあとは馬がなければどこにも行けない……。一刻ほど石のごとく座っていたが、俄かに立ち上がると、
「ときに策は勢いに及ばぬものだ。あれこれ思い患ってもしかたない。とにかく渡し場へ行ってみよう」
知恵者と称されるゴロであったが、この状況では特に良い案も浮かばず、ふらふらと渡し場へ向かう。