第一三七回 ④
コテカイ書庫を訪ねて笑面獺を咎め
ミヒチ南伯を評して楚腰公に告ぐ
戻ってきたミヒチを見て、サルチンが訝しんでいると、
「楚腰公、もうひとつお伝えしておきます」
「どうした、怖い顔をしているぞ」
左右を見回すと少し顔を近づけて、
「南伯よりも、どうやら笑面獺のほうが黒い影を飼ってるよ」
「何と。奴に会ったのか」
「ええ」
サルチンも声をひそめて、
「黒い影とはどういうことか」
「笑面獺は、何も見ていない」
「ん?」
「隻眼傑以外は」
眉を顰めて言うには、
「お前の言うことはいちいち解りにくいな」
「悪かったね。ええと、何て言えばいいかな。南伯が己の野心をハーンに託しているように、笑面獺はすべてを南伯に託しているってことさ。それ以外は彼にとってすべて瑣末なこと」
「つまり光都との友誼や契約はおろか……」
「そう、我がハーンでさえも……。彼には忠心どころか信義も情もさっぱりないよ。いっそ見事と言いたいくらいなもんさ」
「なるほど。よく教えてくれた」
ミヒチはもう一度顔を近づけると、
「まあ、気をつけたほうがいい。ただし解っているだろうが、すべて私の印象だからね。まるで外れてるってこともあるからね」
「承知した」
ミヒチはこれですっきりしたとばかりに莞爾と笑うと、何ごともなかったように帰ったが、くどくどしい話は抜きにする。
ツジャンからの煩わしい依頼も漸く片づいたので、ミヒチは三日ばかりをのんびりと休養に充てた。
そのまま住みついてしまいそうな気配にゾンゲルがそわそわしはじめたので、しぶしぶ重い腰を上げて発つことにする。そこへ一丈姐カノンがやってきて、
「行くのかい?」
「まあ、年内にはジョルチまで行っておかないとだからねえ」
「私も行くよ」
卒かに言ったので、さすがのミヒチもおおいに驚く。
「それは本心かい!? もの好きだねえ。かまわないけど楽じゃないよ」
「だからいいんじゃないの」
呵々と笑う。それぞれ準備を整えて、ともに発つ。ヘカトに代わってカノンが加わったことになる。
さて一行は舟で対岸に渡った。いよいよ中原である。河を離れてヤクマン部の版図に入ってしまうと危険が多いので、河沿いに北上して神風将軍アステルノ率いるセント氏のアイルを指す。
数日間は何ごともない。天候にも恵まれて気分よく馬を駆る。ある日、軽く食事でも摂ろうと馬を止めて休憩していたところ、カノンが声をひそめて言った。
「昨日あたりから跡を蹤けてくる奴があるようだよ」
「えっ!? それは真?」
ミヒチが思わず声を挙げる。それをしっと制して、
「間違いない。ずっと同じ速さ、同じ間隔でついてくる連中がある。商旅に見せているがおかしいだろう?」
ゾンゲルが首を竦めて、
「うひぃ」
呟くが、これは黙殺される。ミヒチはいよいよ眉を顰めて、
「何ものだろうね。どうする?」
「そうだねえ。野盗の類ならとっくに襲ってきてると思うんだ。そうじゃないということは……」
「神都、あるいはヤクマンの間諜といったところかねえ」
そう言えば、カノンは嬉しそうに、
「さすがは白夜叉、私も同じ意見だよ」
「うひぃ」
「どっちにしろ煩わしいには違いない。撒いてしまうか、討ってしまうか……。相手は何騎ほど?」
「おそらくは十騎前後。……やってしまうかい?」
カノンの目が光を帯びる。
「うひぃ」
「うるさいね、さっきから! 口を縛っときな!」
「はい、姐さん」
しゅんとして黙り込む。そんなゾンゲルを放っておいて、二人の女丈夫は何やら密談しはじめる。と、ゾンゲルはふと左手前方、五十歩ほど先に一騎の人影を認めて言った。
「ちょっと姐さん方、あれをご覧なさい」
ところが二人は相談に夢中で気づかない。勇を奮い起こしてさらに言うには、
「姐さん方! あちらにも胡乱な奴がおりますぜ」
やっとミヒチが応えて、
「何だい、うるさいよ。大事な話をしてるんだから……」
言いつつ顔を上げれば、ゾンゲルの指す一騎が漸く目に留まる。
「ん? あれは娘だね。何をしているんだろう、独りで」
カノンもまた気づいて、
「あら、かわいい娘さんじゃないか。偶々通りかかったんだろう。あんな子に血を見せたらいけないね。もう少し先へ進んで、人目につかないところでやっちまおうよ」
そこで三人は何食わぬ顔で再び馬上の人となると、そっと駆けだした。ちらりと後ろを見遣れば、件の商旅もまた動きだす。
一方、前にいた娘はというと、そのまま馬を止めてじっとこちらを見つめている。ミヒチたちは特段の意を払うことなくそのまま北上する。
と、ゾンゲルがちらとそちらを見て、
「うひぃ。姐さん方、あの子もついてきますぜ」
横目で見れば、たしかに五十歩ほどの間合いは保ちつつ、こちらの足に合わせて馬を走らせている。カノンが眉間に皺を寄せて、
「何だかわからないけど、気にしてもしかたないね。娘さんには悪いけど、ちょうどいいところを見つけたらやるよ」
さてこのことから両個の女丈夫は縦横に得物を振るって、寒光影裡に人頭は落ち、殺気叢中に血雨を噴くという次第となる。
またテンゲリの導きによって一個の佳人に遇い、その口から驚くべき顛末を告げられるわけだが、これこそまさに「面上には笑容ありといえども、眉間には殺気を帯着す」といったところ。果たして彼女たちはいかにしてこれを逃れるか。また謎の娘はいかなるものか。それは次回で。