第一三七回 ③
コテカイ書庫を訪ねて笑面獺を咎め
ミヒチ南伯を評して楚腰公に告ぐ
さて翌日、ミヒチはサルチンに呼び出された。行くとヘカトもそこにあった。
「白夜叉、どうして呼ばれたか解っているだろう」
サルチンの問いに答えて、
「南伯の件だね」
「そうだ。鳳毛麟角から早馬があった。さあ、聞かせてくれ。隻眼傑はどうであった」
ミヒチはしばし少考する。二人は黙って待っている。溜息を吐くと言うには、
「……ひとつ断っておくけど、あくまで私の印象だからね」
「わかっている」
「じゃあ、話そうかね。……あれはなかなかに難しい男だよ」
「ううむ」
唸ったのはもちろんヘカト。一瞥をくれて、
「何て言えばいいのかな。心に大きな影を飼っている」
サルチンは眉を顰めて、
「もう少し解りやすくならんか」
顎に白い指を当てて、伏し目がちに言うには、
「ううん、そうだねえ。自信に溢れているようで、実は己を卑しんでいる」
「どういうことか」
問うのはやはりサルチン。
「おそらく出自のせいだと思うんだけど……。もちろん誰もそんなこと気にしやしないさ、あれだけの傑物だからね。でも誰よりも当人が最もそれを嫌っている」
「出自というとムルヤム氏、つまり無名の小部族であることか?」
「そう。南伯は野にある虎、野心をずっと育ててきたんだと思う。でも実際には兵は寡く、笑面獺を除いては人もいなかった……」
「ううむ」
「……野心ばかりが育って、実力との乖離はますます拡がる。何ともかわいそうではあるね」
サルチンは腕を組んで言った。
「だが今や南伯の地位を得て、東原でその権勢に勝るのはヒィ・チノ・ハーンのみ。漸く溜飲を下げたのではないか」
するとミヒチは僅かに眉を顰めて、
「人の欲なんてものは涯がないよ」
「南伯にはさらなる大望があると……?」
ミヒチは顔を上げると、
「ええ。自力では成しえない、とてつもない大きな望みが。南伯はそれをハーンに託すことで己を慰めている。あの尋常ではない忠心の核はそこにあると思う」
「何と……」
サルチンは言葉を失う。そこで唸ってばかりだったヘカトが口を開いて、
「そう言えば南伯は言っていたな。草原をすべて手に入れてヒィ・チノを『諸王の王』にすると。……あれは本心だったか」
首を振って答えて言うには、
「恐ろしいと思ったのは、むしろそのあとさ」
「ん?」
ヘカトは首を傾げる。ミヒチは目を吊り上げて、
「何だい、何とも思わなかったのかい! 南伯が言ったろう。『ハーンは人衆の頂点にあらねばならぬ』、『いかなるものも及ばないから尊い』って」
「たしかにそんなことを言っていたな」
「続けてこうも言ったよ。『そう思っているからこそハーンに従い、これに仕える』ってね。恐ろしくないかい?」
「いや、それがいったい……」
いよいよ苛立って言うには、
「何と! 鈍いのは顔だけにしとくれよ。南伯は言ったんだよ、『ハーンが頂点にあるから仕える』ってね」
サルチンがはっとして、
「つまりそれは……」
「そう! そうじゃなくなったら、あるいは南伯がそう信じられなくなったら、ハーンに従う道理がなくなるってことさ!」
「ううむ……」
ついに二人とも黙り込む。ミヒチは半ば独り言のように、
「そんなの南伯の心象次第。これはなかなかに殆ういよ……」
その場は何となく散会となり、サルチンはミヒチに礼を言ってこれを返す。
一礼して辞去したミヒチは自室に戻りかけたが、ふと立ち止まって、
「ああ、もうしかたないね。笑面獺にも会っといてやるか」
あちこち尋ねて、やっと一室にヤマサンを見つけだす。近づいて拱手すると、
「ナルモントのミヒチと申します。今、よろしいですか」
「ああ、白夜叉殿ですね。お噂はかねがね。どうぞおかけください」
ヤマサンが指した席に着座する。対面に腰を下ろすと、
「わざわざどうしたのですか」
「ハーンより光都を託された高名な笑面獺殿に挨拶しておこうと思って。昨日の宴席にはお見えにならなかったので」
からからと笑うと言うには、
「ああ、それは失礼しました。案外に忙しくしておりまして」
それから半刻ほどあれこれ会話しながら観察する。ヤマサンは終始笑顔を崩さず応答は軽快にして即妙、ときに雑ぜる戯言にも智慧の一端が見える。ミヒチも楽しげに応対していたが、やがて言うには、
「おや、お忙しいのにすみません。そろそろ失礼します」
「かまいませんよ。白夜叉さんのような方なら、いつでも歓迎します」
「ありがとうございます。ではこれで」
礼を言って席を立つ。ヤマサンはその姿形を頭から足まで瞬時に眺め回して、嘆息しつつ言うには、
「貴女は、世に謂う美人ではないかもしれませんが、何とも言いがたい魅力がありますね。ぜひまたお会いしたいものです」
「あら、どうも。また縁があれば会えるでしょう。では」
やや早足に室を出るや、険しい表情になって再びサルチンを訪ねる。