第一三七回 ②
コテカイ書庫を訪ねて笑面獺を咎め
ミヒチ南伯を評して楚腰公に告ぐ
一丈姐カノンが城門の脇に立っていて、三人の姿を見るや両手を挙げて駈け寄る。
「待ちかねたよ! ああ、みんな久しぶりだね、息災だったかい?」
「相変わらずだよ。わざわざ出迎えてくれるとは嬉しいねえ」
相好を崩して互いに再会を祝す。その後ろから恐る恐るゾンゲルも顔を出して、ずいぶんと恐縮しながら言うには、
「その節(注1)は失礼しました」
カノンはおおいに笑って、
「私はもう気にしちゃいないよ。いったいいつの話をしてるんだい。あれも縁だ」
一同は馬を下りてこれを牽きながら、ぞろぞろと大路を進む。中央の庁舎に至ると、門衛に断って中に入る。
一室に通されると、すでに楚腰公サルチンと嫋娜筆コテカイが待っていた。酒食が運ばれて主客相分かれる。久闊を叙して乾杯する。飲みながらあれこれと話していたが、ふとミヒチが尋ねて、
「おや、笑面獺の姿が見えないけど」
コテカイが答えて、
「誘ったのだけれども、用があるとかで……」
カノンが首を傾げて言うには、
「あの人は渾名のとおりいつもにこやかで人当たりも柔らかいのだけど、こういうときは輪に加わろうとしないんだよ。だからもうひとつ何を考えてるか判らないのさ」
サルチンが軽く制して、
「笑面獺は職務に忠実な能臣。ここにはあくまでハーンの付託を受けた傭兵の長として在る。節を守っているんだろう」
「ははあ、難しい男だね。あの温顔がかえって不気味だよ」
呆れ顔でカノンが言う。ミヒチは黙ってこれも観ている。と、コテカイが遠慮がちに口を開いて、
「実は楚腰公にも黙っていたことがあるのですが……」
何を言いだすかと思えば、やはり笑面獺ヤマサンのこと。しばらく躊躇っていたが意を決して、
「先日のことです……」
とて話しはじめたのは以下のようなできごと。
庁舎に街の公文書を保管している一室がある。秘書官としてその管理にも携わっているコテカイは、ある日、中に人の気配を感じてそっと様子を窺った。
すると財政に関する文書を納めた棚の前にヤマサンの姿を認めた。なおも見ていると、棚から文書を取り出しては開いてあれこれと眺めている。どうやら何かを探しているようだが、はっきりとは判らない。
堪らずコテカイは一歩を踏みだす。今にして思えば殆うい行動だったかもしれないが、そのときは必死だったのである。
「そこで何をしているのですか」
声が震えていたかどうかは覚えていない。ヤマサンははっとしてひどく驚いた様子だったが、すぐにいつもの笑顔を取り戻すと、
「やあ、嫋娜筆。相変わらずお美しい。なあに、ちょっと興味があって帳面を眺めていただけですよ」
「何をお査べになりたいのですか。言ってくだされば私が……」
「いえ、とんでもない。私は草原の、それも小さな部族の出自。なので街の文書とはどんなものか見てみたかっただけです。でもさっぱりわけがわかりませんね、あはは」
そう笑いつつ棚に文書を戻して去ろうとする。擦れ違いざまに言うには、
「まことに嫋娜筆は賢くて美しい。どうです、今度一緒に飲みませんか」
コテカイは身を固くして答える。
「どうもありがとう。次に一丈姐たちと飲むときはお誘いします。それより、ここには重要な書類が数多あります。濫りに立ち入らぬようお願いします」
「はい。これは迂闊でした、申し訳ない。美人の願いとあらば何でも聞きますよ。もう二度と来ません」
コテカイは通りすぎた背にさらに声をかけて、
「何かあれば私におっしゃってください。査べてお教えしますので」
「ありがとう。でもそういうんじゃないんですよ」
顧みることもなく歩み去る。コテカイは急いで文書をよくよく検めたが、なくなったものはないようであった。それから書庫の管理について再考し、衛兵を配したり、印璽を造り替えたりした。
さて、これを聞いてみな等しく唸り声を挙げる。サルチンが尋ねて、
「嫋娜筆の印象として、どうだ。笑面獺の弁明は信が置けるか」
「しかとは判りませんが……。ただ見たかっただけというのは、どうも腑に落ちませぬ。それに、あれほど有能なものがわけがわからぬはずもないと思うのです」
ミヒチが口を挟んで、
「すると笑面獺は嘘を吐いたことになるね」
「もちろん、はっきりとは判らない。案外、言うとおりかもしれないし……」
ヘカトが尋ねて、
「ちなみに何の文書を見ていたのだ」
「主に兵備に関するものです。武具や馬具、軍袍など……」
「ふうむ」
それっきり何も言わない。サルチンが雰囲気を変えんとて声を挙げて、
「判らぬことを憶測で述べ合ってもしかたない。笑面獺はハーンの信頼ある家臣。ゆえなく疑うのはよくない。その件は措いて、飲もうではないか」
みなほっとした様子で再び料理に手をつける。しかしミヒチは見逃さなかった。サルチンが僅かに目を曇らせたのを。とりあえずこの話もここまでにする。
(注1)【その節】カノンが光都に向かう途上、野盗だったゾンゲルに襲われたが、偶々居合わせたヒィ・チノらに救われたこと。第三 四回①参照。