第一三六回 ④
ショルコウ金杭星を翼けて北原の利を図り
ヒィ・チノ白夜叉を派して四方の情を探る
ワドチャがおおいに頷きつつ、
「超世傑殿については存じ上げませぬが、獅子ギィは紛れもなく一世の英傑。風の噂によれば、マシゲルは戦に由らず自ら望んで幕下に投じたとのこと。義君なる人物、どれほどの器量か想像もつきません」
「それよ。俺も不慮のこと(注1)がなければ、十年近くも前にジョルチを訪ねているはずだったのだ。獅子や超世傑もさることながら、以前に東原に来た(注2)胆斗公ナオルもまた俊傑だった。まったくインジャとはたいしたものではないか」
ミヒチがふと気づいて、黙って杯を傾けているヘカトに言うには、
「おや、鉄面牌は義君と面識はないの?」
「うむ。そういえばないな……」
するとゾンゲルがやめておけばよいのに、
「姐さん、わしも知りませんぜ」
「阿呆だね! 鉄面牌も知らないのに、いわんやお前みたいなものが知るわけなかろう。黙って飲んでな!」
「はい、姐さん」
嬉しそうに杯を傾ける。ヘカトは胡乱な目をこれに向けたが、気を取り直して言うには、
「いっそ中原へ誰か遣ってはいかがですか」
ヒィはばしっと膝を叩いて、
「そうだな! ここであれこれ言っていてもしかたない。では……」
座をぐるりと見回して、
「白夜叉、お前は案外ものがよく見えている。中原へ行ってこい」
ミヒチは細い目をこれ以上ないくらい見開くと、
「いやです」
即答したものだから、傍らのワドチャが狼狽のあまり杯を落とす。あわてふためいて言うには、
「おい、ハーンの命令を言下に断るとは何ごとだ。申し訳ありません、どうかお恕しを……」
ヒィは呵々大笑して、
「俺は白夜叉のそういうところを買っているのだ。だがどうあっても行ってもらう。何も今すぐ発てと言っているのではないぞ」
「では来年あたり……」
「ん? 明朝……、遅くとも明日の夕刻には」
これを聞いてミヒチは眉を吊り上げる。ほかの相手なら瞬時に罵詈雑言が九百ばかり溢れだすところだったが、さすがに自重してただひと言、
「最悪!」
ワドチャが青ざめるのもどこ吹く風。さらに抗って言うには、
「使者ならいつも神行公が務めているじゃありませんか。今回も神行公に嘱んだらどうです?」
ヒィはふふんと笑って、
「あれには東原ではたらいてもらう。それに迅速を重んじるなら奴を送るが、今回はそうではない。じっくりと中原を観てきてほしいのだ。諦めて行け」
「はい、はい。わかりましたよ」
早速中原へ行く算段をして、やはりゾンゲルが護衛がてらついていくことになった。ヘカトも渡し場を建設するにあたって、職人などを索めるべく光都まで同行する。
ミヒチは中原に何の知己もないので、ワドチャがギィに宛てた書簡を認めてこれに託した。また文字を知らぬヒィに代わって、ムジカやナオルらに宛てた書簡も作成した。ミヒチは眉を顰めて、
「病大牛、お前がすべて預かっといて。失くしたら承知しないよ」
「はい、姐さん」
そうして翌朝、ぶつぶつ言いながらそれでも発つ用意をしているところへ、何とツジャンが現れて言うには、
「光都を経由して中原に行くそうだな」
「ああ、鳳毛麟角。耳が早いね」
「そこで白夜叉に頼みがある」
それを聞くやテンゲリを仰いで、
「最悪! あんたもかい。まったく何でもかんでも私に押しつけて!」
ツジャンはやや気圧されながら、
「すまないが、ここはひとつ頼まれてくれ」
「何を」
冷たく訊き返せば言うには、
「光都に行く前に南伯を訪ねてほしい」
「それで?」
「ううむ。よく観て、思ったことを鉄面牌と光都の楚腰公に伝えておいてくれ」
呆気にとられて、
「それだけ?」
「ああ、とりあえずそれだけだ。率直に思ったことを言うのだぞ」
「……よく解らないけど、頼まれたよ」
溜息を吐いて諾う。準備が整ったので、ヘカト、ゾンゲルとともにオルドへ挨拶に寄ってから旅立つ。ツジャンは遠くにそれを見送りながら密かに思うに、
「南伯は人の下風に立ち続けられるものではない。あの白夜叉は存外に賢いが、よく知らぬものからはそうは見えない。いかに隻眼傑とはいえ、あれを前にしては思わぬ弛みを生じるだろう。それを白夜叉が何と見るか……」
踵を返しつつ、
「もちろん南伯は有能だし、ハーンの信頼も厚く、忠心も旺盛だ。このまま何も起きなければそれに勝ることはない」
また顧みて、
「ただおかしな言い方だが、信頼も忠心もどちらも度が過ぎる。さながら細い糸を双方から力いっぱい引いて、殆うく均衡を保っているようなもの……。ちょっとしたことでどうなるか……」
ひとつ首を振ると、
「私の考えすぎならそれでよい。まずは白夜叉の見たところを知ってからだ」
なおもぶつぶつ言いながら去ったが、くどくどしい話は抜きにする。
かくして一個の女丈夫は数多の任務を託されて発ったのであるが、このことから宿星はますます運り、東原と中原の紐帯は密やかに進んで、のちの大同の素地を成すこととなる。
譬えて云えば水の高きから低きに流れるがごとく、時流の赴くところ、渦中の人は悟らずとも自ずからひとつといったところ。まずは鳳毛麟角の求めに応じて南伯を訪ねるが、果たして白夜叉の旅はいかなる顛末を辿るか。それは次回で。
(注1)【不慮のこと】チルゲイとともにいよいよジョルチを訪ねようとしたところ、父であるダコン・ハーンが臥せったために帰郷しなければならなかったこと。第四 一回③参照。
(注2)【以前に東原に来た】神都の意図を探るべく、ナオルらがチルゲイとともに派遣されて、その足でナルモントを訪れたこと。第九 七回①参照。