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草原演義  作者: 秋田大介
巻九
539/783

第一三五回 ③

ツジャン蕃民を駆りて(たちま)ち勝機を(もたら)

ショルコウ聖旨を奉じて(すなわ)ち異郷に()

 森の民(オイン・イルゲン)たちは喜んでその場で誓った。ヒィは莫大な恩賞(ソヨルガル)を与えると、これを(ヂュブル)へ返した。ゾンゲルがいかにももったいないといった表情で、


「このまま帰しちまうんですかい。まだ(ソオル)は終わっていませんが」


「ははは。誓いをもう忘れたのか。案ずるな、彼らには彼らの戦を戦って(アヤラクイ)もらう」


「えっ、というのは?」


 ヒィは笑うばかりで何も言わなかったが、その答えはやがて衆人の(ニドゥ)に明らかになった。すなわちエバの支配に抗して、森の民が一斉蜂起したのである。


 七旗の軍勢は各処に駐屯するセペートの部隊を襲撃した。そのためにエバは北原に退いて軍を再建するつもりが、たちまち危地に(おちい)った。苦労して掻き集めた兵馬は、飛虎将の勇名と森の民の襲来に怯えて片端から離散していった。


 ケルンの行方も(よう)として知れず、エバは窮した。麾下の部将も一人消え、二人消え、ついにはズベダイを残すばかりとなった。僅か百騎(ヂャウン)ばかりの手勢とともに(ヂェウン)西(バラウン)に逃げ惑う。


 すでにオルドは森の民の略奪に(さら)されて、ハトンをはじめとする家族(ゲルブル)の生死すら定かではない。ズイエの北方に覇を唱えていた「鎮氷河」の雄姿は失われ、いわゆる「喪家の(ノガイ)」に成り果てたのであった。


 一朝にして輿望を失って人衆(ウルス)が四散することは、草原(ミノウル)にあっては珍しいことではない。草原(ミノウル)の民は主君(エヂェン)力量(アルガ)を量るに敏である。エバを見限ってヒィに(なび)くのは、牧地(ヌントゥグ)家畜(アドオスン)を守るためには当然のことだった。


 ナルモントの陣営(トイ)には連日帰投するものが列を成し、ヒィはいちいち会っては権益と財産(エド)を保証して彼らを安堵させた。


 また一方では盛んに軍兵を派遣して、森の民を援けさせるとともに四方の平定に当たらせた。北原の大半はほどなくヒィ・チノの影響下に置かれることとなった。




 さて、ケルンのもとに(とつ)いだエバの娘アラクチュは、屈強な衛兵(ケプテウル)に護られて留守を預かっていた。政略のために異郷に送られた彼女だったが、(ようや)く森の暮らしにも慣れ、ケルンとの間に二人の(クウ)を成していた。


 六歳になる長男エラクと三歳の長女イェルンである。二人とも利発で快活、アラクチュはこれを慈しんで()まなかった。故郷を遠く離れて、(セトゲル)を許せるのは我が子だけであった。


 夫のケルンは美しいアラクチュを粗略にはしなかったが、ときに何を考えているかわからぬこともあった。いや、ともに暮らしはじめて十年近く経った今でもこれを不気味に感じて恐れていたのである。夜ごと肌を重ねながらも心を開くことはできなかった。


 己を政略に用いた(エチゲ)への恨みこそ薄れていたが、ケルンや森の民にすっかり馴染むには至らなかったのである。


 その(ウドゥル)、アラクチュはさまざまな物語(ウリゲル)を聞かせながら、子どもを寝かしつけていた。それは古の英雄の話であったり、頓智に優れた(ウネゲン)の話であったりしたが、いずれも幼いころ(バガ・ナス)(エケ)から聞いたもの、すなわち草原(ケエル)の物語であった。


 やっと子どもが寝息を立てはじめて、ほっとしたときである。率然として野外に人の気配が満ちた。それは次第に近づいてくるようであった。何かは判らぬけれども、じっとしていられなくなってアラクチュは立ち上がった。禍々(まがまが)しい気が辺りを覆い、彼女はうち震えた。


 長男のエラクが異状に気づいたか、(せき)を切ったように泣きだした。イェルンも目を覚まして、わあわあと泣き(わめ)く。アラクチュも恐ろしかったが、ぐっと(オロウル)を噛むと意を決して戸張(エウデン)を開いた。


「そ、そこに誰かいるのですか!」


 ざわざわしていた空気が瞬時(トゥルバス)にしんと静まる。しかし間違いなく何ものかが(アミ)を殺して潜んでいる。再度勇を鼓して、


「ここを、ケルン・カーンの座所と知っているのですか!」


 と、ぴいと口笛が鳴り、方々から得物を持った兵衆がどっと現れた。アラクチュは(アマン)(おお)って悲鳴を呑み込む。兵はあとからあとから出てきて、その数たるや(アルバン)二十(ホリン)ではない。気が遠くなりかかったところに(ダウン)がかかって、


「ケルンは戦に敗れて死んだ。もうカーンでも何でもないぞ」


「ま、まさか!」


 兵士どもが口々に答えて言うには、


「草原の民に媚びたために、森の怒り(アウルラアス)を招いたのだ」


「森の民の尊厳を守り、草原の(くびき)を絶つべく我々は決起したのだぞ」


「草原の民を駆逐し、森に(にえ)を捧げるのだ」


 そして一斉に歩み寄ってくる。アラクチュは衛兵の姿(カラア)(もと)めて叫んだ。


「誰か! 誰かいないか!」


 と、足許(あしもと)に何かが投げつけられた。ごろりと転がったそれを見て、ついに悲鳴を挙げる。それは、首であった。彼女を護っていた衛兵の一人だった。


 アラクチュは狂乱の(てい)でゲルに駈け込む。二人の子はますます泣き叫ぶ。兵衆はかまうことなく踏み入ってきた。子どもを両脇に抱えて庇おうとする彼女の(ヂャカ)(つか)むと、


「さあ、来るんだ! 森の平和(ヘンケ)を乱した罪を身をもって償え!」


「あああ、この子たちだけはどうかお助けください!」


「エバの血脈に連なるもの、どうして生かしておけようか」


 有無を言わさず引き摺り出すと、その場で母子ともども斬殺する。彼らは歓声を挙げると、みっつの屍を携えて去った。七旗の首長はおおいに喜んで儀式を執り行うと、これをヒィに報じた。ヒィはこれを聞いて、


「そうか」


 ひと言述べたきりであった。それからツジャンを呼ぶと、必ずケルンを見つけるよう厳命した。エバについては関心がないのか触れもしない。ツジャンは(いぶか)しく思いつつも拝命して退出する。


 エバの末路が明らかになったのは、まもなくのことであった。エバは終わりなき彷徨を続けていたが、ある日、アラクチュと二人の(アチ)の悲劇を聞き知ってしまったのである。(やつ)れ果てた(ヌル)をテンゲリに向けると、


「ああ、我(あやま)てり!」


 絶叫するや、喀血(かっけつ)して昏倒した。あわててズベダイが揺り起こすと、(にわ)かにかっと(まぶた)を開いて、


「わしは、断じてあの小僧(ニルカ)(ゆる)さぬ。彼奴と彼奴の(ツォサン)を継ぐものがあるかぎり、永遠(モンケ)に呪い続けてくれよう」


 そして再び一斗もの濁り血を()いて絶命した。あまりに強烈な呪詛(ハラアル)に、さしものズベダイも蒼白となる。しばし呆然としていたが、やがて悲嘆(ゲヌエル)にくれつつ遺骸を抱えて埋葬の地を(もと)めた。


 適当なところを見つけると、遺骸を埋めて(コリス)を踏み固める。またひとしきり哭泣したあと、自刎(じふん)して果てた。


 その一部始終をある羊飼い(ホニチド)が見ていて、ヒィに報せた。ヒィは羊飼いを厚く賞して帰した。諸将はエバの放った呪詛に激怒(デクデグセン)したが、ヒィは呵々と笑って、


「死者に何ができよう。(ブー・)て置け(アブルチャイヤー)


 そう言って取り合わなかった。北原の平定は無事に完了し、蕃民どもも兵馬を収めて森へと帰っていった。ヒィはしばらく留まって、なおもケルン捜索を続けた。また布告してその帰投を(うなが)した。


 そしてついにケルンは、自らツジャンのもとへ出頭してきた。(ヂル)が明けて早々のことである。ツジャンはこれを丁重に遇して、ヒィに報告した。おおいに喜んで早速これを引見する。

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