第一三四回 ④
三上卿朋輩を売りてモルトゥの不興を買い
胆斗公盟邦を援けてエジシの帰郷を勧む
ナオルは大きく頷いて、
「東原はどうですか。何か聞いていますか」
「そのことだが……」
言いかけたところ、百策花セイネンが身を乗り出して言うには、
「昨年、神箭将がついに北伐を敢行しました。南伯シノンと光都のサルチンに後方を託して、総勢五万の兵を帥いてズイエ河を渡りました」
「ほう、ヒィ・チノも北伐を……」
ナオルはおおいに感嘆する。みなそれは同感にて、東原の英傑に思いを馳せる。
当初、ヒィ・チノは一昨年(ジョルチン・ハーン五年)の秋には出陣する予定だったが、いろいろと事情があって日を延ばしていた。
それがついに用意万端整って、兵を発することになったのである。ちょうど西原で王大母がクリエンを形成したのと同じころである。
五万騎の陣容はと云えば、先鋒は例によって小金剛モゲト、中軍はヒィ・チノ自ら統べ、幕下にツジャン、キセイ、ゾンゲルらを配す。今回は司命娘子ショルコウも幕僚として遠征に加わった。また密かに鉄面牌ヘカトも従軍する。
後軍はオラザ氏の族長となったワドチャが務める。牧地を守るのは隻眼傑シノンと笑面獺ヤマサンである。
対するセペート部の鎮氷河エバ・ハーンは、またも女婿たる金杭星ケルン・カーンに来援を請い、迎撃の態勢を整えた。
だが前回と違って、神都のヒスワは恃みにできない。なぜなら先に述べたとおりすでに同盟は決裂(注1)していたからである。
代わりにエバはこの数年、ケルンを助けて北の異族をあるいは討伐し、あるいは慰撫して勢力を拡大していた。その兵を併せたおかげで七万騎を超える大軍となっていた。
それを知ったキセイがあわてて報告に及べば、ヒィは呵々と笑い飛ばして、
「戦は数ではない。雑軍は雑軍、十万が百万でも恐れるには足りぬ」
そう言って懸念を退けた。実際、ヒィはやろうと思えば十万から十五万の兵をも動員できたが、あえてそれをしなかった。かつてヒスワに後方を襲われたのを戒めとして、かなりの兵を残してきたのである。
結局、選りすぐった精鋭を五万。これは先の北伐(注2)とほぼ同じ数である。だがこの五万騎こそはヒィが長年に亘って鍛えた精兵中の精兵だった。
「それにな、神行公。俺は以前の俺とは違うぞ」
というのは、ツジャンに命じてある計略を遂行させていたのである。そこへちょうどツジャンが現れたので、ヒィは相好を崩すと、
「おお、待っていたぞ。どうだ、うまくいきそうか」
「はい。抜かりはございません」
怪訝な表情のキセイに言うには、
「ははは、いずれ判る。それはそうとツジャンよ。君は近ごろ大層な渾名を付けられたそうではないか」
面を伏せて恥ずかしそうにしながら、
「お耳に入りましたか。身に余る名にて困惑しております」
「ほう。どんな渾名か、興味があるな」
「お恕しください。虚名を自ら吹いて回るほど豪胆にはできておりません」
「ははは、では余のものに尋ねよう」
ずっと静かに座していたショルコウに目を遣って、
「お前は知っているか?」
ツジャンの表情を伺いつつ述べて言うには、
「存じております。『鳳毛麟角』というものです」
「司命娘子、止めよ」
「まあまあ、よいではないか。ふうむ、また仰々しい名だがいかなる意味か」
応じて答えたのを聞けば「鳳毛」とは鳳凰の毛、「麟角」とは麒麟の角のこと。ともに世に極めて稀なものである。転じて、ツジャンの才能はそれほど得がたいものであるという意味。
初めは詩作に長じていることからその卓れた文才を鳳毛に譬えていたが、やがてその多才はただの鳳毛に留まらぬというので、いつしか鳳毛麟角と併せ称されるようになった。
ヒィはおおいに喜ぶと、
「何とすばらしい名ではないか。恥じることはない。堂々と名乗れ」
「いえ、私には過ぎた名でございます」
「ははは、ならぬ。その響き、気に入ったぞ。以後は勅命においても用いることにする。わかったな」
ハーンにそこまで言われては逆らうことはできない。ヒィは満足して、幾度も「鳳毛麟角、鳳毛麟角」と呟いたが、くどくどしい話は抜きにする。
さて、ナルモント軍は楚腰公サルチンの調達した舟で一斉にズイエ河を渡った。号令一下、進軍を開始する。広く斥候を放ち、セペートの先遣隊と小競り合いを繰り返しながら奥地へと進んだ。
エバ・ハーンの本営には次々と早馬が至っては、敵軍の精強当たるべからざることを告げていく。ついに怒りだして、
「もうよい! 飛虎将の猛勇はとうに承知しておるわ。それだけなら報告に及ばぬ!」
ズベダイはそれを見て、憂いの色を浮かべる。それも気に入らずに罵って、
「どいつもこいつもヒィ・チノを恐れている。お前もそうなのだろう!」
ややあわてて答えて、
「何をおっしゃいます。我が軍は北方の経略によって倍増しました。いかに飛虎将が優れていようとも、ケルン様率いる『蕃民八旗』に敵うものではありません」
蕃民八旗とは、帰順した異族を八隊に編成したもので、先鋒を担う強兵にほかならない。一隊およそ三千騎、すなわち計二万四千騎である。
エバは途端に機嫌を直すと、
「そうだな、蕃民八旗ほどの兵は草原中を見回してもそうはおるまい」
「はい。必ずや敵人の心胆を寒からしめることでしょう」
「ふふふ。ひと泡もふた泡も吹かせてくれようぞ」
まさしく大志を陳べるに障壁となるはいずれも北の姦賊にて、東西相和するがごとく義兵を興すといったところ。
西の一個は汚穢に塗れて自ら亡びたるものの、ひとたび東に目を転ずれば、一個は北胡を恃んで侮るべからず勢い。果たしてヒィ・チノの再度の北伐は功を奏するか。それは次回で。
(注1)【同盟は決裂】ヘカトの経略によってヒスワを欺き、エバを怒らせてその使者であるドブン・ベクを斬ったこと。第九 一回③参照。
(注2)【先の北伐】七年前、ヒィ・チノは即位してまもなく北伐を敢行した。第四 三回④~第四 七回①参照。