第一三三回 ③
アサン圏営に赴きて将に鴆毒を除かんとし
ナユテ祭壇を設けて方に連盟を誓わんとす
モルテは手を胸の前で組んで、悲愴な調子で言うには、
「ああ、私に何かできることはないでしょうか」
「とんでもない。貴女方には休息が必要です。ずっと看護しておられたのでしょう。みな毒気に中てられて顔色が悪い。薬を差し上げますから、それを服してゆっくりお休みになってください」
「いえ、私は……」
「いけません。これは医者としての命令です。逆らうことは許しません」
そうまで言われては返す言葉もなく、また実際毒気に中てられた風でもあったので、みな薬を受け取るとうなだれて己のゲルに帰った。だが眠りに就ける道理もなく、誰もが輾転反側(注1)しつつ夜を過ごした。
翌朝、まだ陽も昇りきらぬころ、チルゲイのもとにジュゾウが駈け込んできて、
「起きろ! 王大母様が気づかれたぞ!」
いつもなら朝に弱いチルゲイも、がばと跳ね起きる。
「真か!」
「うむ。俺はほかの連中にも伝えてくる」
チルゲイはすぐにガラコのゲルへ走った。戸張を勢いよく開けて飛び込むと、たちまちアサンに窘められる。それには取り合わず、
「王大母様が目覚められたとか」
「ええ。一応の危機は脱したと言ってよいでしょう」
「ああ、良かった!」
アサンは微笑んで、
「テンゲリの加護の賜物です」
寝台のガラコが口を開いて、弱々しい声で言った。
「……ああ、チルゲイかい。心配かけたねえ」
それを聞くや、その場に平伏して絞り出すように、
「いえ、不明にて王大母様を殆うき目に遭わせてしまいました。申し訳ありませぬ!」
「謝ることじゃないさ。私が迂闊だったんだよ」
「いえ、申し訳ありませぬ」
チルゲイは顔を上げることもできない。アサンもいずれ彼を叱責しようと思っていたが、深く反省しているのを見て莞爾と微笑むと、
「さあ、いつまでもそこで這いつくばっていては、ほかの方々が入れませんよ」
顧みれば戸張の辺りにモルテ、オノチらが佇んでいたので、愧じる色を見せつつ端に退いた。ところがモルテをはじめ、入ってくるものがいずれも片端から平伏して陳謝するものだから、いちいちアサンがこれを助け起こさねばならなかった。
ゲルの中に人が満ちると、
「まったくしかたのない人たちですね。さあ、王大母殿にはまだ休養が必要です。いつまでもここに居てはいけません」
オノチが尋ねて、
「まことに、まことに王大母様は助かったのですね!」
「ええ、最も険しい峠は越えました。安静にさえしていれば、ひと月後には完全に恢復するでしょう」
一同は快哉を叫ぶと、厚く礼を言ってその場を辞した。あとにモルテとチルゲイの二人が残った。モルテは重ねて拝謝して、
「この恩はとても財物で量れるものではありませんが、できるかぎりのお礼をさせていただきたいと思います」
「いえ、医者として分を尽くしただけのこと。過分な礼は無用に願います」
「それでは私たちの気が収まりません」
アサンは少しく考えていたが、やがて言うには、
「では私のほうからひとつ要望してよろしいですか」
「ああ、そうしていただけますか。何なりとおっしゃってください」
「私の望みはただひとつ、クル・ジョルチとウリャンハタの早期の会盟です」
一介の医者だと思っていたアサンの口から多分に政治的な、それも機密に属する内容が飛び出したので、モルテはおおいに驚いた。チルゲイが傍らから言うには、
「アサンはただの医者ではありません。実は我がウリャンハタの軍民両政を司る丞相なのです」
ますます驚いて非礼を詫びれば、それを制して、
「傷病に苦しむ人の前では私はただの医者です。私はもうしばらくクリエンに留まって王大母殿の看護に当たります。貴女はチルゲイとともに輿論を会盟へと導いていただきたい」
「はい」
チルゲイが勇躍して、
「易い、易い。王大母様の傷を治したのがウリャンハタの聖医と知ったら、誰が会盟に異を唱えよう!」
これを戒めて、
「あまり調子に乗ってはいけません。慎重にことを進めてください」
「承知、承知。神道子を借りてよいか? 彼の異能は必ずや役に立つだろう」
「いいでしょう。連れていきなさい」
かくしてその日から、チルゲイ、モルテ、カンバルらは精力的に人衆を説いて回り、同志を増やしていった。アサンが危惧するほどのこともなく、「ウリャンハタの聖医」の名は彼らを懐柔するのに大きく寄与した。
さらにガラコが起き上がれるくらいに恢復すると大勢の志士がゲルを訪ねてきたが、彼女が口を極めてアサンを称賛するのを聞き、また実際にその人となりに接すれば例外なくその信奉者となった。
加えてナユテの卓越した占卜の技能は人衆を驚嘆させるに十分だった。噂は瞬く間にクリエンを席巻し、彼のゲルの前には占卜を求めるものが列を成した。
いつしかウリャンハタを敵人と呼ぶものはなくなり、会盟の機運は否応なく盛り上がった。
(注1)【輾転反側】思い悩んで眠れず、何度も寝返りをうつこと。