第一三三回 ②
アサン圏営に赴きて将に鴆毒を除かんとし
ナユテ祭壇を設けて方に連盟を誓わんとす
チルゲイが戻ってきたことに気づいて、ドクトらはそっと席を譲る。モルトゥはガラコを一瞥するや、あまりに変わり果てた姿に衝撃を受ける。顧みて言うには、
「王大母殿が助かるのであれば、何処の医者でもかまわぬ」
チルゲイが低い声で答えて、
「その名医はウリャンハタ部においては『聖医』の渾名を奉られ、尊崇されております」
モルトゥは目を円くして、
「ウリャンハタ? 今、貴公はウリャンハタと言ったのか」
「はい。そしてこの私も紛れもなくウリャンハタのものでございます」
顧みてモルテに、
「どういうことだ。賢婀嬌殿は知っていたのか」
「……はい。しかし彼らは間諜の類ではありません。私たちがウリャンハタとの和親を考える遥か前に、先方から会盟を求めてやってきたのです」
あとを継いで、
「クル・ジョルチと戦うのは我が部族の本意ではありません。そこで会盟を模索するべく私が差遣されてまいったというわけです」
「ではイトゥクやジュゾウも……」
「いえ、そうではありません」
そこでチルゲイはここに至る経過を細大漏らさず話す。かつてガラコらに説いた「草原の民の大義」も併せて語れば、モルトゥはおおいに得心して、
「そうであったか。先に貴公がウリャンハタとの和平に自信を見せたわけが今わかった」
「申し訳ありませぬ。隠すつもりはなかったのです。時宜を見て申し上げようと思っていたのですが……」
「謝らずともよい。それより今は王大母殿の命こそ優先されねばならぬ」
「はい。そこでバアトルにひとつお願いがございます。王大母様には我らが附いておりますゆえ……」
「わかっている。私は人衆の動揺を鎮めよう」
力強く言うと、再びガラコに視線を向けてからゲルをあとにしたが、くどくどしい話は抜きにする。
さて、もう一方のジュゾウは昼夜兼行でウリャンハタの陣営を目指した。道中何ごともなくアサンのもとへ辿り着くと、挨拶するのももどかしく喚いて言うには、
「ああ、聖医殿! 今すぐ王大母様のクリエンに来てください! 王大母様が刺客に襲われて倒れてしまったんです!」
アサンは、ジュゾウが卒かに飛び込んできたことにも驚いたが、話を聞いてますます驚いて、
「お待ちなさい。それは真ですか?」
「当然でしょう。目の前で見たんだから! とにかく早く来てくださいよう」
袖を引かんばかりのジュゾウを制して、
「いきなり来いと言われても。まずは詳しく事情を話してください」
「そんな暇はないんです!」
「しかしそれでは私も困ります。話を聞かねば治療の用意もできません」
「ああ! では……」
ジュゾウは早口に、しかし正確に事件の顛末を話した。聞いて言うには、
「ううむ、それは猶予ならざる事態。わかりました。大カンに申し上げてすぐに発ちましょう。……しかしチルゲイが附いていながら何たる失態!」
無論、衛天王カントゥカが拒む道理もなく、半刻後にはアサンも馬上の人となる。さらに神道子ナユテと牙狼将軍カムカが随った。
四騎轡を並べて道を急ぐ。しかしいかに疾駆しても、百里をひと飛びにはできない。ただガラコの体力とテンゲリの加護を恃みにひたすら駆ける。
幸運にも道中を遮るものはなく、ついにクリエンに達する。ジュゾウの案内に順って、アサンら三人はガラコのゲルへ向かった。
戸張の前に石沐猴ナハンコルジが立って、ゲルを護っていた。アサンの姿を認めると、躍り上がって両腕を振り回し、
「お待ちしておりましたぞ!」
と叫ぶ。
「間に合いましたか!」
アサンも叫べば、ただ幾度も頷く。二人のやりとりを聞きつけて、中からドクトやイトゥクも飛び出してくる。
「さあ、まだ助かると決まったわけではありません。患者を診せてください」
戸張をくぐると、そこにはモルテ、チルゲイ、オノチが在った。あるいは歓声を漏らし、あるいは安堵して息を吐くのを退かせて、ガラコを一瞥するなり、
「ううむ、これは……」
口籠もる。モルテが今にも卒倒せんばかりの青ざめた顔で尋ねて、
「助かるでしょうか?」
それには答えず、一同を見わたすと言うには、
「治療を始めます。神道子と飛生鼠以外は外に出てください」
その口調は常のアサンにない厳しいもの。抗うことなくモルテらはゲルを出る。かといってどこへ行くわけでもなく、みな周辺に佇む。
会話もなく重苦しい空気のまま待つことしばし、治療は相当に長引いていた。いよいよチルゲイが様子を窺おうと一歩を踏みだしたときである。さっと戸張が開いてアサンが出てきた。口々に問いかければ、かなり疲れていたが答えて言うには、
「力は尽くしましたが、予断を許しません。賊の用いたのは猛毒の類で、今まで保っていたのはほとんど奇跡です。彼女の強靭な意志と体力には感服いたしました」
モルテが消え入りそうな声で、
「ではもしやということも……」
「……ありえます。みなさんには心しておいていただきたい。ただ、今夜を越えることができれば、いささかなりとも快方へ向かうでしょう。私はひと晩王大母殿に付き添います」