第一 四回 ①
ヒスワ密かに感状を竄めて主人を陥れ
ゴロ敢えて大河に投じて神都を逃れる
ナオル、ジュゾウ、ドクトの三人は、ハツチの書簡を携えて先の非礼を詫びるべく、ゴロの家へと向かった。ナオルとドクトは、家を知らないどころか当人と面識すらなかったが、行ってみれば迷いようがなかった。
というのも、さすがは神都一の富豪というだけあって、この神都においては元首の官邸に次ぐ豪邸だったからである。聞きしに勝る豪壮な邸宅を眼前に、ナオルは思わず嘆声を漏らして、
「やあ、凄いな。この塀に囲まれた土地はすべてゴロ殿のものというわけか」
ドクトが答えて言うには、
「たいしたことないわ。我らにとってみれば、草原の続くかぎり己の庭のようなものではないか。比べればこんな家、石ころも同然だ」
「こらこら、そんなことを言うものではない」
飛生鼠ジュゾウもここでは塀を乗り越えるような無粋をはたらくわけにもいかず、門を敲いて案内を請う。これもまたサノウ邸と違うのは、すぐに門が開いて利発そうな小間使いの小童が現れた。小童はジュゾウの顔を知っていたので驚いて、
「ジュゾウさん、あなたはお尋ねものですよ。こんなところでうろうろしてたら危ないじゃありませんか」
気にする風でもなくせせら笑って、
「それよりゴロは居るかい」
「ああ、ゴロ様は十日ほど前から商用で出かけております」
「何だ、居ないのか! で、どこへ行ったんだ」
「中原の西南方にシータという海があります。そこにイシ、カムタイという街があるとか。そちらに出かけております」
ジュゾウはそもそも草原の地理には昏かったので、どの地名も知らなかった。ナオルが、メンドゥ河が流れ込む海だと教える。
シータ海は、実は巨大な湖である。が、中原の民でそれを知っているものはあまりいない。イシ、カムタイはどちらもその滸にある街で、東西交易の拠点のひとつになっている。
「ちぇ、困ったな。しばらく帰ってこないぜ」
「なあ、君のご主人がいつ帰ってくるか聞いてるか」
ナオルが尋ねたが、小童はそこまでは知らないようであった。が、思いついて言うには、
「でもいつも三月かそこらで帰ってくるから、今回もそんなものだと思いますよ」
それを聞いては会うのを諦めざるをえない。やむなくハツチの書簡だけを置いていくことにした。
「ゴロ殿が帰ったら、この書簡を渡してくれ。大事な書簡だから忘れないように」
小童はそれを受け取りつつ、
「お名前を聞かせてください」
「ジュゾウの友人だよ、怪しいものではない。書簡は開ければ誰からのものか判るから心配しなくていい」
「はい。ちゃんと渡します」
実は小童、ジュゾウの友人と聞いて内心これは怪しいと思ったが、あえて何も言わずに書簡をしまった。三人はゴロには会えなかったものの、無事に務めを終えて意気揚々と草原に帰っていったが、くどくどしい話は抜きにする。
さて、小童が門を閉めて中に戻ると、一人の男がそれを待ちかまえていた。
「おい、今の客は誰だ」
はっとして見れば、家宰のヒスワであった。巷で評判の色男で、才覚も十分に備えており、ゴロに気に入られて重用されていた。ゴロが留守の間は数多の店舗のすべてを管理して、これまで過ちを犯したことがない。
しかし小童は、この男を忌み嫌っていた。
ヒスワは容貌といい才略といい、欠けるものは何ひとつなかったが、性格は高慢で虚飾を好み、また狡猾で残忍でもあった。近ごろではゴロの妻であるミスクに色目を使いだしており、それがまた小童の気に障っていた。
が、ヒスワは家宰である。目を伏せておもむろに答えた。
「何でしょう、ヒスワ様」
ヒスワは、口許を歪めて笑うと、
「今の客人は誰だと聞いてるんだが」
「知りません。ゴロ様の友人と言ってましたが」
「ふうん」
ヒスワは意地の悪い笑顔のままで近づいてくると、じっと小童を覗き込んだ。たまらず顔を背ける。
「おや、どうしてこっちを見ない。何か隠していることがあろう」
小童は黙り込む。くっくっと喉の奥で笑いながら、
「ちらっと見たところでは、一人はあの飛生鼠ではなかったかな?」
どきりとして、それでも平静を装って言うには、
「いえ、見間違いでしょう」
「そうかな。それならば、なぜお前は客の名をしかと聞かなかったのだ。ゴロ様が留守のときに来客があれば、名を確かめるよう言われているのではなかったか。怠慢だぞ」
小童は背筋に冷汗が流れるのを感じた。
「も、申し訳ありません……」
「しかもそんな名も知れぬ客から、お前は何か預かったであろう」
いよいよ小童はがたがたと震えだし、返答に窮する。
俄かにヒスワは大喝して、
「こら、小僧! 嘘を吐くな! 書簡のようなものを受け取っていたではないか。さては善からぬことを企んでいるな。家宰として看過できぬ。さっさと出さぬとただではおかんぞ」
すでに小童は腰を抜かしてへたり込んでいる。
ヒスワは冷めた目でこれを見下ろした。
「飛生鼠は重罪人だ。そんな奴から書を受け取るとはお前も同罪、すぐに役所に突き出してもよいのだぞ。そうなればお前の両親もただではすまぬ」
そしてぐっと顔を近づけると、囁いて言うには、
「だがな、預かったものを出せば恕してやってもよい。さ、悪いことは言わん。すぐに出したほうが身のためだぞ」
小童は目を白黒させるばかり。かまわずその懐に手を突っ込んで、例の書簡を奪い取る。その場で開いて内容を一瞥すると、不敵な笑みを浮かべて、
「おい、これは俺が預かっておく。お前には関係がないことがわかったから恕してやろう。他言は無用だぞ」
そう言い捨てて去ってしまった。小童は今のヒスワの表情から、きっとゴロの身に善からぬことが起こるに違いないと思っておおいにあわてたが、どうすることもできない。