第一三三回 ①
アサン圏営に赴きて将に鴆毒を除かんとし
ナユテ祭壇を設けて方に連盟を誓わんとす
王大母ガラコは武神モルトゥの帰投により久々に余暇を得ると、周囲の制止を振りきって狩猟へ出かけた。ところが卒かに刺客に襲われて重傷を負ってしまった。
同行した二人の好漢はおおいに狼狽えて、とりあえず飛生鼠ジュゾウは聖医アサンを恃んでウリャンハタの陣へ、雷霆子オノチはガラコを護ってクリエンへと道を分かった。
オノチはクリエンに帰ると、真っ先に賢婀嬌モルテにことを知らせた。モルテはさっと顔色を変えると、すぐにガラコのもとへ走った。
王大母が兇刃に倒れたことは瞬く間に知れわたってしまったので、人衆はおおいに動揺した。それはチルゲイやイトゥクらも例外ではなく、青ざめた顔で駆けつける。オノチは彼らと見えるや、血が出るほど唇を噛んで、
「私が附いていながら面目ない。王大母様に何かあったら死んでも詫びきれぬ」
そう言って肩を震わせる。常には多弁なチルゲイもかける言葉がなく、ただ言うには、
「王大母様はテンゲリに替わって道理を貫いてきた方、必ずや加護があろう」
そう慰めつつ仰臥するガラコを見れば、眉は苦しげに歪められ、肌は青黒く変色している。チルゲイはううむと唸って、
「毒か!」
絞り出すように言った。さらには、
「……毒が用いられたとあっては五技鼠の医術も及ばぬわけだ」
そこで初めてジュゾウの姿がないことに気づいて尋ねれば、
「ジュゾウは一縷の望みを託して聖医殿を呼びに行った」
チルゲイはおおと目を瞠って、次いでテンゲリを仰ぐと、
「私としたことが動転してアサンのことを忘れていた! 彼ならきっと王大母様の毒を除いてくれよう。ただ……」
はっとして口を噤む。しかしその先は言わずともみなわかっていた。
いかに聖医とはいえ死人を蘇らせることはできない。ガラコの命の炎が尽きるのが先か、アサンの到着が先か、まさしく人事を尽くして天命を俟つといったところ。誰もが黙ってテンゲリに祈りを捧げる。
しばらくしてチルゲイはそっとゲルを出ると、モルトゥを捜してついにオルドで彼に会うことができた。凶報に接して慄くハヤスン・カンの傍らに附いていたのである。チルゲイが口を開くより前に、
「おお、王大母の容態はどうだ? 命に別状はないか」
次々に質問を浴びせる。というのもハヤスンが異常に怯えていたからである。それを察して慎重に答えて言うには、
「王大母様は僅かに傷を負われましたが、軽傷にてまったく心配は無用でございます。刺客もすでに討ち果たしておりますゆえ、ご安心ください。治療が了わり次第、王大母様自らオルドへ参ろうかと存じます」
モルトゥはその気配からことは楽観できぬことを覚ったが、あえて喜色を浮かべて言った。
「おお、それは好かった! 大カン、お聞きになりましたか。王大母殿は息災、さらに刺客の脅威も去りましたぞ」
ハヤスンは安堵した様子で、
「うむ、うむ。だが王大母は部族の柱石、決して無理はせぬよう伝えよ」
「承知」
チルゲイは退出するとき、ちらとモルトゥに目配せする。外で待っていると果たしてあとを追ってきたので、周囲を気にしながら実情を明かせば、やはりテンゲリを仰いで、
「何と卑劣な! 王大母殿を欠いては回天どころではないぞ」
「今、ジュゾウが草原に冠たる名医を迎えに行っております。我々はテンゲリに祈るしかありません」
「名医だと? それは……」
「彼が間に合えば、必ず王大母様は助かります」
「真か!」
「おおいなるテンゲリに誓って偽りは申しません」
「そうか……。ならば祈ろう」
呟いてしばらく黙っていたが、ふとチルゲイを見遣ると、
「それほどの名医がいるとはついぞ聞いたことがないが、いったいどこの氏族のものだ」
すぐには答えない。漸くモルトゥが訝りはじめたので、ついに言うには、
「バアトルがご存知の氏族ではおそらくありません」
「どういう意味だ」
また少し間があって、意を決したように言うには、
「その名医は我が部族の出自。すなわちクル・ジョルチのものではありません」
「何? ということは……」
驚いて問い返せば、もはや躊躇することなく陳べて、
「はい。今までバアトルに言わずにおいたことがございます。私はクル・ジョルチのためにはたらくものですが、クル・ジョルチの人衆ではありません」
「…………」
「バアトル、王大母様のゲルまでご足労願えませんか」
「よかろう」
二人は黙って移動する。目指すゲルに至って戸張をくぐると、先と変わらず誰もがうち沈んで枕許を囲んでいる。幸いかな、まだガラコの息はある。