第一三二回 ④
オウタン徒爾に兵を発して恥辱を被り
ガラコ余暇に猟を楽しみ奇禍に遭う
満足して頷くと、オウタンへと視線を向ける。大仰な身ぶりを交えて言うには、
「おお、将軍には礼を申し上げねばなりませんな。我が将兵をわざわざここまで連れてきていただけるとは……。一万の精鋭、たしかに受領いたしましたぞ。ご苦労ですが、すぐに戻って族長によろしくお伝えください」
オウタンは恥辱のあまり、頬を真っ赤に染めて唸り声を挙げる。縄を解かれると嘲笑の響く中を俯いて去る。行ってしまうとドクトが尋ねて、
「バアトル、生かして帰してよかったんですかい?」
「ははは。あんな奴、殺すほどの価値もない」
モルトゥは兵を纏めてクリエンに帰還した。ハヤスンをはじめ、みなおおいに喜んだのは言うまでもない。
王大母のクリエンの威名は日に日に高まり、新たに投じてくるものはあとを絶たなかった。攘夷を棄てた志士たちは、モルトゥに「武神」の渾名を奉って敬仰したが、くどくどしい話は抜きにする。
ある日、ガラコはふと思い立って、狩りに出かけることにした。モルテはその身を案じて引き留めたが、
「近ごろ忙しくて腕が鈍ってるからね。モルトゥのおかげで少しは暇もできたしさ。私のことなら心配要らないよ。誰だと思っているんだい?」
そう言って取り合わない。そもそもガラコは狩りが何より好きで、以前は三日と空けずに行っていたのだが、クリエンを構えてからはただの一度も暇がなかった。
モルテもそれを知っていたから、あまり強くは言えない。そこでチルゲイが言うには、
「ではオノチを供にお加えください。彼は弓射にかけては古の名人も舌を巻く腕の主です」
「そうかい、それは楽しみだねえ」
上機嫌で頷くと、十数騎ほどを連れて出立した。不安が拭えないモルテは、
「まことに心配ないでしょうか。王大母の身に何かあっては……」
「オノチが傍にあれば安心かと思いますが、どうしても不安ならば密かにジュゾウをして警護せしめましょう」
さて、ガラコは久々の遠出に身も心も弾みつつ、狩りの獲物を索めて馬を駆った。オノチは間断なく周囲を警戒して、いささかも気を緩めることはなかった。
幸い成果は上々で、ガラコは狩りをおおいに満喫した。いよいよ獲物を纏めて帰らんとしたときのこと。卒かに森の中から、喊声を挙げて一団の兵馬が飛び出してきた。ガラコはあわてふためく従者をよそに余裕綽々、
「ははあ、現れたね」
得物を握り直す。オノチは早くも二、三騎を射落とすと、
「王大母様、お退きください。ここは私が……」
「うるさい。つべこべ言ってる暇はないよ!」
そう言って襲いかかってきた男をばっさりと斬り下げる。刺客はいずれもかなりの武術の使い手、オノチ、ガラコほどの勇将ですら容易くは退けえない。
従者の多くはあるいは逃げ、あるいは討たれてまったくあてにならない。あわてて駆けつけたジュゾウも加えて、三人で右へ左へと戦い続ける。
奮戦することしばし、漸く刺客はその数を減じはじめる。最後の一人をジュゾウが屠ってやっと息を吐いた。
「王大母様、ご無事ですか」
オノチの問いに答えて、
「ああ、何ともないよ。あんたたちこそ傷を負わなかったろうね」
もちろんオノチもジュゾウも刺客ごときに後れをとるものではない。高らかに笑い合うと、逃げ散った従者を呼び集める。
「さあ、帰ろうか」
ガラコが馬首を廻らした、その瞬間であった。
「死ね、王大母!」
その声にオノチとジュゾウははっと振り返る。見れば、あろうことか、ガラコの側腹に匕首(注1)が深々と突き立っている。
「あっ!!」
瞬時には何が起こったのか、判然としない。さらによくよく見れば、何と従者の一人が、卒かにガラコを刺したのであった。
「此奴め!」
ジュゾウはおおいに怒って、踵を返さんとしていた男を斬り捨てたが、ガラコはううむと唸ってどっと落馬する。
「王大母様!」
あわてて助け起こしたが、その顔からはみるみる血の気が失せていく。ジュゾウが愕然として叫ぶ。
「いかん、毒が塗ってあったらしい!」
これでは医療の心得がある五技鼠といえどもいかんともしがたい。ともかく応急に処置を施すと従者どもを睨みつけて、
「おい、王大母様に何かあったらただではおかないぞ!」
「待て。どうやら彼らは関係ないようだ」
オノチが言うとおり、余の従者は首を振るばかりで、まっすぐ立っているのもやっとという有様。さらに問い詰めれば、王大母を刺した男は近ごろ新たにクリエンに加わったものらしい。
「開かれたクリエンが仇となったか……」
「雷霆子、ぼんやりしているときではないぞ。お前は王大母様をクリエンまでお連れしてくれ。決して無理をしてはならぬが、できるだけ速やかに!」
「承知。飛生鼠は?」
「俺はひと走りして聖医殿を連れてくる」
「おお、それが好い!」
「それまで保てばよいが……。テンゲリの加護を祈るばかりだ」
二人の好漢はそこで別れたが、まさしく奸智の刃の率然と至りて女傑の命旦夕に迫るといったところ。恃むは聖医の神業とテンゲリの加護ばかり。
しかしこのことから東西はますます結歓(注2)し、ひとたび危殆を逃れて再び義憤を新たにすることとなる。果たして王大母の命はどうなるか。それは次回で。
(注1)【匕首】鍔のない短刀。懐剣の類。あいくち。
(注2)【結歓】誼を結ぶ。仲好くする。互いに喜び合う。結好。