第一三二回 ③
オウタン徒爾に兵を発して恥辱を被り
ガラコ余暇に猟を楽しみ奇禍に遭う
オウタンは驚いて、
「何ですと! それは真ですか?」
「らしいね。あの狂癲婆によると」
「それは虎に翼を与えたようなもの。早急にこれを討たねば、取り返しのつかぬことになりましょうぞ」
「そうなんだけどね」
オウタンはどんと胸を叩いて、
「私にお委せください。即座に軍を興して、かの叛徒めを擒えてまいりましょう」
その自信に満ち溢れた態度にデゲイはおおいに力づけられたが、なおも疑って、
「モルトゥは名高き名将、勝算はあるの?」
「ご案じ召されますな。我が将兵は部族随一の精鋭、シャガイの弱卒を持て余しているモルトゥごとき、万が一にも敗れる気遣いは無用です」
「そうかい。ならば君に託そう。捷報を待っているぞ」
「承知」
意気揚々と退出すると、その日のうちに軍令を発して兵を召集した。準備がことごとく整うと、勇躍して出陣する。総じて一万騎、シュガク軍の中核を占める力猛きものどもである。
幾日か経って、デゲイのもとに血相を変えてやってきたものがあった。混血児ムライである。彼はソドムが訪ねてきたときには別の任務を帯びてアイルを離れていた。この日、帰ってきて事の次第を聞いたのである。
「おお、混血児か。あわてているようだが」
「当然です! すぐにオウタンを召還してください!」
「どうしたのだ、彼ならもう……」
「族長は我が身を滅ぼすおつもりですか! 今ならまだ……」
激しい語気にむっとして、
「穏やかではないね。どういうことか説明しろ」
ムライもまた苛々しながら、
「オウタンが勝つことなどありえません。いたずらに兵を失うだけです」
「そうか? 勝算があると申しておったぞ。モルトゥの兵はシャガイから奪った弱卒五千に過ぎぬ。それに比べてオウタンに預けたのは精鋭一万……」
ムライはほとんど叫ぶように、
「その精鋭を育てたのは誰ですか! あの兵衆がモルトゥ・バアトルに刃を向けるわけがありません。必ず挙って彼奴の下に走りましょうぞ!」
そこで初めてデゲイは己の迂闊さに気づいて青ざめる。あわてて早馬に割符を与えてオウタンのあとを追わせた。弁解して言うには、
「狂癲婆のせいで頭が回らなかったのだ。どうすればよかろう?」
「運をテンゲリに委ねるほかありませんな」
冷たく突き放す。彼の姿がアイルから消えたのは数日後のこと。先にセイヂュクを棄てた男は、今またデゲイの下からも去ったのである。
そして彼の懸念は的中することになる。モルトゥはオウタン軍来襲を知ると呵々大笑して、
「使えぬ奴とは思っていたが、オウタンがこれほど魯鈍とは思いませんでした。労せずして我が兵衆を取り返すことができますぞ」
僅か二千騎を従えると、チルゲイ、ドクト、ジュゾウの三人とともに発った。
名もなき平原で相対すると、堂々の陣を布く。先頭には高々とモルトゥ・バアトルの軍旗が掲げられ、それを見ただけでシュガク軍は動揺する。オウタンは意気揚がらぬ将兵を叱咤して、
「敵はたかだか二千騎ではないか。さあ、ものども、叛徒を討て!」
しかし誰も動こうとはしない。攻撃の銅鑼を鳴らす兵卒も、困惑して顔を見合わせるばかり。
と、敵陣から十数騎が駆け出てくる。呆気にとられて見ていると、一列に並んで叫びはじめた。何と叫んだかと云えば、
「バアトルはここに在るぞ! 無道を去って正道に復せ!」
「お前らはそもそも誰の兵だ! バアトルの恩を忘れたか!」
「愚将を選ぶか、名将を選ぶか? 決断せよ!」
などなど。これを聞いた将兵の動揺はさらに深まる。オウタンは顔を紫に染めて怒鳴り散らす。
「ええい、戯言に耳を貸すな! 彼奴等は叛徒だぞ! さあ、何をしている。殺せ、彼奴らを殺し尽くすのだ!」
その間にも造反を誘う声は、シュガク兵の耳を打ち続ける。叫ぶ十数騎の中にはチルゲイ、ドクト、ジュゾウの姿もある。もとより声の大きいことを見込まれて従軍していたのである。
「聞くな、聞くな! わしの命に従え!」
オウタンは激怒して、手にした鞭で身近の兵を片端から撻った。それを見て兵衆は瞬時に心を決めた。怒声を挙げるや、どっとオウタンに襲いかかる。
「な、何をする? やめろ、叛逆は死罪だぞ!」
喚いたが与するものは一人とてなく、あっと言う間に鞍上から引き摺り下ろされて散々に殴られる。
モルトゥは悠然とその混乱を眺めていたが、そこにほどなくオウタンを連行して部将たちが現れた。彼らは揃って平伏する。
「面を上げよ」
部将たちは恐懼しながら身を起こす。モルトゥは笑って、
「よくぞ参った。またともに戦おう」
これを聞いて等しく安堵の表情を浮かべる。そこへ重ねて言うには、
「もう不義のために戦うことはない。敵はウリャンハタでもジョルチでもない。我らの敵は、我が部族の敵は、ほかならぬ我が部族の内にあった。すなわち上卿会議を廃さねば、クル・ジョルチに未来はない。よいな?」
応じて再び平伏すると、異口同音に叫んで、
「承知! 我ら一同、バアトルの掲げる大義のために命を惜しみませぬ!」