第一三二回 ②
オウタン徒爾に兵を発して恥辱を被り
ガラコ余暇に猟を楽しみ奇禍に遭う
しかしチルゲイの示唆した第三項、すなわちウリャンハタ、ジョルチとの和親を告げると、志士どもは愕然としてあたふたと狼狽する。
なぜなら彼らはつい今までウリャンハタ、ジョルチは退けるべき外敵としか認識していなかったからである。それは圧倒的な強さを見せられたあとでも変わっていなかった。ゆえにモルトゥの言葉は天地が覆るような衝撃を彼らに与えたのである。
モルトゥはおおいに笑って、
「ウリャンハタ、ジョルチの精強ぶりはお前らもよく知るところだ。だが我らはこれと争わぬ。むしろその兵を用いて腐敗した上卿専制を打ち砕くのだ!」
一瞬の間を置いて、歓声が天地をどよもした。蝟集(注1)する兵卒は、あるいは拳を突き上げ、あるいは足を踏み鳴らした。チルゲイは、ジュゾウやオノチらと視線を交わして笑いあったが、くどくどしい話は抜きにする。
かくして志士軍を嚮導にクリエンに至れば、先にジュゾウを遣って報せておいたので、王大母ガラコ、賢婀嬌モルテ、黥大夫カンバルが揃ってこれを出迎える。モルトゥは颯爽と下馬すると拱手の礼を交わす。そして言うには、
「王大母殿、後れ馳せながら大カンの膝下に加わるべく参りました!」
「おお、よく来たね。大カンもきっとお喜びになるだろうさ。さあ、オルドへ案内しようか」
ガラコも上機嫌で応じる。一行は群衆の間を縫って進んだ。
カンに拝謁したモルトゥは平伏して遅参を詫びる。ハヤスンは殊の外喜んで早速モルテに諮問して、
「バアトルの武名は轟いておる。無官ではすまされぬが、何か良案はあるか」
答えるより先にチルゲイが進み出て、
「僭越ながら申し上げます。バアトルの率いる五千騎は、これすべて大カンの近衛軍として徴集されたもの。よって近衛大将の職こそ相応しかろうと存じます」
「ふうむ。しかし近衛の将には王大母を任じてあるのではなかったか」
「仰せのとおりでございます。王大母様は長らく大カンに忠義を尽くしてまいりました。そこでその功を嘉してさらに位階を進め、全軍を統帥する大将軍の栄誉を担わしめてはいかがでしょう?」
ハヤスンはおおいに気を好くして、
「おお、そうじゃな! それが善かろう」
ところが当の王大母はあわてて言った。
「私はとてもそんな重任には堪えられません。天下に聞こえた名将が目の前にいるというのに、私ごときが上席を汚すわけにはいきません。どうかバアトルをこそ大将軍に」
ハヤスンは困り果てて師傅たるカンバルに援けを求める。笑みを禁じえない様子で答えて、
「チルゲイの上奏、まことに理に適ったものと思われます」
モルトゥも莞爾と微笑んで、
「大将軍には王大母殿が適任かと存じます」
ともに推したので、ハヤスンはほっとして、
「みなこう申しておるゆえ、王大母を大将軍に、バアトルを近衛大将といたす。よいな」
ガラコは目を円くしたが、大カンの勅命をこれ以上固辞するわけにもいかず、不承々々拝命する。この決定が布告されると人衆の狂躁はますます嵩じて、方々で祝杯が挙がる。
会盟を志向する同志もこの例に漏れず、王大母のゲルに集まって宴の席に連なった。居合わせたのは総じて十人、すなわちガラコ、モルテ、カンバル、モルトゥ、イトゥク、チルゲイ、ドクト、ジュゾウ、オノチ、ナハンコルジの面々。
彼らは今後の方策を話し合いつつ流觴飛杯、いつ果てるともなくうち興じたがこの話はここまでとする。
さて、先にモルトゥと袂を分かった幕僚たちは、上卿を索めてついにオカク氏の狂癲婆ソドムのアイルに駆け込んだ。彼女はモルトゥ離叛を聞くや、怒り心頭に発して彼らを難詰した。
「それであんたたちはおめおめ逃げ帰ってきたってわけ?」
彼らはうなだれて黙り込む。その態度にますます激昂して、
「揃いも揃って無能ね! 生きている価値もない。斬れ!」
応じて常にソドムの側に侍る屈強な隷民どもが、彼らを引き摺り出そうとする。悲鳴を挙げて口々に命乞いするが、もとより聞き容れるソドムではない。あっと言う間に全員斬り殺される。
それを見届けると車に乗って、鬼女のごとき形相でシュガク氏のアイルへと向かった。
デゲイのゲルに乗り込んだソドムは、渾名の示すままに喚き狂う。デゲイにとってもモルトゥ離叛は想定外のことだったが、それ以上にこの眼前のソドムに辟易して、寒くもないのに流れ落ちる汗を頻りに拭う。
そもそもソドムは、かっとしてはいたずらに騒ぐばかりで、大局を観る目も事理を考える頭もなかった。
デゲイを責めているのも単なる嗜虐に過ぎなかったから、ひたすら平身低頭して肥えた身体を縮めているほかない。あえて抗弁しようものなら、それに倍する罵詈雑言を浴びるだけのことである。
漸くソドムが満足して帰途に就いたころには、デゲイはぐったりとして考える気力も失せていた。そこにオウタンが現れて言うには、
「いったいソドム様はどうされたのですか。ひどくお怒りのご様子でしたが」
「ああ、オウタンか。いやはや参ったよ。実は困ったことが起きてね」
打ちのめされた様子に、生来の諂侫の心性を発揮して、
「お困りのことがございましたら、このオウタンめにご相談ください」
恭しく言えば、デゲイは疲れきった口調で、
「ううむ。実は先に敵人迎撃に遣わしたモルトゥが、離叛して王大母に投じたらしいのだ」
あっさり事情を明かす。
(注1)【蝟集】一か所に群がり集まること。