第一二九回 ①
カンバル好漢と語りて忽ち本籍を訐き
チルゲイ女傑に陳べて大いに事理を弁ず
さて、熱狂的な歓迎をもって王大母のクリエンに入った靖難将軍イトゥクらは、翌朝まだ陽も昇らぬうちに黥大夫カンバルのゲルに招かれた。カンバルは出入りしている志士どもを退けると、しばらくは黙っていたがついに尋ねて言うには、
「我が部族の踏むべき道について、貴殿のご意見を伺いたい」
穏やかだが威厳ある口調に思わず居住まいを正すと、
「されば……」
とてイトゥクは語りはじめる。まず何と言ったかと云えば、
「今、内には大奸があり、外には冦兵を迎えて、胸宇に憂慍(注1)の情を抱く志士は、声高に尊王攘夷を唱えています」
カンバルは無言で頷いて先を促す。応じて、
「しかし冷静に鑑みれば、今の我々の力では上卿専制を覆すには足らず、冦難を禦ぐには及びません。よっていたずらに理想に囚われていては、いかにそれが高邁なものであったとしても結局は部族を滅ぼしてしまうでしょう」
「ならば貴殿はどうせよと」
イトゥクはしばらく躊躇う素振りを見せる。余の好漢もじっと黙っている。座にしばしの沈黙が訪れた。
と、どこからか、高く、長く、咆哮一声響きわたる。みなはっとして顔を上げた。そのどこか清澄な声は、心に沁み入るようであった。
「狼だな……」
石沐猴ナハンコルジが誰にともなく呟いた。と、イトゥクはそれを機に意を決したのか、ついに口を開く。
「黥大夫様」
カンバルは目線を上げて応えた。
「これから私が述べんとすることは、一見部族の尊厳を踏み躙るかのごとく聞こえるかもしれません。しかし……」
語りはじめたのは、これまでクル・ジョルチでは誰一人として考えるもののなかった、すなわち本来外敵たるジョルチ、ウリャンハタと結んで上卿会議を打倒するという回天の秘策。これを実行すればたちまち内憂外患は霧消して、ただ一個の革命の大義が残るというもの。
聞き終わるや、カンバルはううむと唸って言葉を失う。さすがの黥大夫も思いも寄らなかったのである。イトゥクはさらに声を励まして言うには、
「志士たちの賛同を得がたいことは承知しております。しかし我が部族を救うにはこれが最良の策です。志士たちはジョルチ、ウリャンハタを上卿どもに劣らず憎み嫌っておりますが、果たして彼らの実態は決して同じではありません。ジョルチの赤心王は中原に秩序を復し、多くの人士に慕われております。またウリャンハタの衛天王は非道の主ミクケルを討って、西原に安寧をもたらしました。麻のごとく乱れた草原は、かつての平和を取り戻しつつあるのです。独り我が部族だけがこの流れに背を向けてよいものでしょうか。不義を去って大義に附くのに躊躇してはいけません」
「ううむ……」
「黥大夫様! 何を迷っておいでです。奸賊と命運をともになさるおつもりですか」
思わず語気を荒らげる。と、それを制して言うには、
「貴殿の考えはよく解った。たしかにその策が成れば危機は回避できよう。……しかしひとつ難点がある」
「ですから私も無智蒙昧な志士が得心しないであろうことは……」
「そうではない」
言下に否定すると、眉を顰めて、
「貴殿の策は、それこそ妄想と罵られてもやむをえぬ」
「なぜですか!」
「ウリャンハタらと結んで上卿を打倒する……。言うのは易い。しかし……」
「しかし?」
業を煮やして詰め寄れば、苦渋に満ちた表情で、
「我が部族は恨みを買いすぎている。常に辺境を侵し、通商を妨げ、あまつさえ先年は遠征の留守を襲った。たとえ結盟を持ちかけても、衛天王は応じるまい」
それを聞いたイトゥクは虚を衝かれる。次の瞬間には余の五人がにやりと笑って互いに顔を見交わす。当然のごとくカンバルは訝しむ。はっとしてチルゲイが非礼を詫び、ジュゾウがイトゥクの袖を引く。我に返って、
「その点についてはご心配には及びませぬ」
「というと?」
「黥大夫様は、ジョルチの太師が誰であるか、聞き及んではおられませんか」
「ジョルチの太師? 知らぬな。それが何か?」
イトゥクは意識せず辺りの様子を窺うと、そっと顔を寄せて小声で言うには、
「黥大夫様もご存知の方です。単刀直入に申し上げます。ブリカガク氏のエジシとおっしゃる方です」
これを聞いて驚くまいことか、目を見開いて声も出ない。かまわず続けて、
「実は偶々エジシ様の知遇を得る機会がありまして。エジシ様は今日、ジョルチとクル・ジョルチが干戈を交えるに至ったことをとても憂えておられます」
「……エジシとはまことに、まことにあのエジシか。中原に去ったのは知っていたが、よもやジョルチの太師になっていようとは……」
「エジシ様も黥大夫様のことを気にかけておられました」
「三十年も行方を晦ましておいて、今さら気にかけていたもないものだ」
とて苦笑する。次いで尋ねて言うには、
「で、彼は何と?」
「はい。『ジョルチ部とクル・ジョルチ部は、もとは同じ人衆』であるとおっしゃられました」
(注1)【憂慍】憂えて怒ること。または、憂いと憤り。