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草原演義  作者: 秋田大介
巻九
513/783

第一二九回 ①

カンバル好漢と語りて(たちま)ち本籍を(あば)

チルゲイ女傑に()べて大いに事理を弁ず

 さて、熱狂的な歓迎をもって王大母のクリエンに入った靖難将軍イトゥクらは、翌朝まだ(ナラン)も昇らぬうちに黥大夫(げいたいふ)カンバルのゲルに招かれた。カンバルは出入りしている志士どもを退けると、しばらくは黙っていたがついに尋ねて言うには、


「我が部族(ヤスタン)の踏むべき(モル)について、貴殿のご意見を伺いたい」


 穏やかだが威厳ある口調に思わず居住まいを正すと、


「されば……」


 とてイトゥクは語りはじめる。まず何と言ったかと云えば、


「今、内には大奸があり、外には冦兵を迎えて、胸宇(オモリウド)憂慍(ゆううん)(注1)の(ドウラ)を抱く志士は、声高に尊王攘夷を唱えています」


 カンバルは無言で頷いて先を(うなが)す。応じて、


「しかし冷静に(かんが)みれば、今の我々の(クチ)では上卿専制を(くつがえ)すには足らず、冦難を(ふせ)ぐには及びません。よっていたずらに理想に囚われていては、いかにそれが高邁なものであったとしても結局は部族(ヤスタン)を滅ぼしてしまうでしょう」


「ならば貴殿はどうせよと」


 イトゥクはしばらく躊躇(ためら)う素振りを見せる。余の好漢(エレ)もじっと黙っている。座にしばしの沈黙が訪れた。


 と、どこからか、高く、長く、咆哮一声響きわたる。みなはっとして(ヌル)を上げた。そのどこか清澄(トンガラグ)(ダウン)は、(セトゲル)に沁み入るようであった。


(チノ)だな……」


 石沐猴(せきもっこう)ナハンコルジが誰にともなく呟いた。と、イトゥクはそれを機に(オロ)を決したのか、ついに(アマン)を開く。


「黥大夫様」


 カンバルは目線を上げて応えた。


「これから私が述べんとすることは、一見部族(ヤスタン)の尊厳を踏み(にじ)るかのごとく聞こえるかもしれません。しかし……」


 語りはじめたのは、これまでクル・ジョルチでは誰一人として考えるもののなかった、すなわち本来外敵(ダイスンクン)たるジョルチ、ウリャンハタと結んで上卿会議を打倒するという回天の秘策。これを実行すればたちまち内憂外患は霧消して、ただ一個の革命の大義が残るというもの。


 聞き終わるや、カンバルはううむと唸って言葉(ウゲ)を失う。さすがの黥大夫も思いも寄らなかったのである。イトゥクはさらに声を励まして言うには、


「志士たちの賛同を得がたいことは承知しております。しかし我が部族(ヤスタン)を救うにはこれが最良の策です。志士たちはジョルチ、ウリャンハタを上卿どもに劣らず憎み嫌っておりますが、果たして彼らの実態は決して同じ(アディル)ではありません。ジョルチの赤心王(フラアン・セトゲル)は中原に秩序(ヂャルチムタイ)を復し、多くの人士に慕われております。またウリャンハタの衛天王は非道の(エルキム)ミクケルを討って、西原に安寧(オルグ)をもたらしました。麻のごとく乱れた草原(ミノウル)は、かつての平和(ヘンケ)を取り戻しつつあるのです。独り我が部族(ヤスタン)だけがこの流れに(ノロウ)を向けてよいものでしょうか。不義を去って大義に附くのに躊躇してはいけません」


「ううむ……」


「黥大夫様! 何を迷っておいでです。奸賊と命運(ヂヤー)をともになさるおつもりですか」


 思わず語気を荒らげる。と、それを制して言うには、


「貴殿の考えはよく解った。たしかにその策が成れば危機(アヨール)は回避できよう。……しかしひとつ難点がある」


「ですから私も無智蒙昧(ハラング)な志士が得心しないであろうことは……」


「そうではない」


 言下に否定すると、(フムスグ)(ひそ)めて、


「貴殿の策は、それこそ妄想と罵られてもやむをえぬ」


「なぜですか!」


「ウリャンハタらと結んで上卿を打倒する……。言うのは易い。しかし……」


「しかし?」


 業を煮やして詰め寄れば、苦渋に満ちた表情で、


「我が部族(ヤスタン)は恨みを買いすぎている。常に辺境を侵し、通商を妨げ、あまつさえ先年は遠征の留守(アウルグ)を襲った。たとえ結盟を持ちかけても、衛天王は応じるまい」


 それを聞いたイトゥクは虚を衝かれる。次の瞬間には余の五人がにやりと笑って互いに顔を見交わす。当然のごとくカンバルは(いぶか)しむ。はっとしてチルゲイが非礼(ヨスグイ)を詫び、ジュゾウがイトゥクの(カンチュ)を引く。我に返って、


「その点についてはご心配には及びませぬ」


「というと?」


「黥大夫様は、ジョルチの太師が誰であるか、聞き及んではおられませんか」


「ジョルチの太師? 知らぬな。それが何か?」


 イトゥクは意識せず辺りの様子を窺うと、そっと顔を寄せて小声で言うには、


「黥大夫様もご存知の方です。単刀直入に申し上げます。ブリカガク氏のエジシとおっしゃる方です」


 これを聞いて驚くまいことか、(ニドゥ)を見開いて声も出ない。かまわず続けて、


「実は偶々(たまたま)エジシ様の知遇を得る機会(チャク)がありまして。エジシ様は今日、ジョルチとクル・ジョルチが干戈を交えるに至ったことをとても憂えておられます」


「……エジシとはまことに、まことにあのエジシか。中原に去ったのは知っていたが、よもやジョルチの太師になっていようとは……」


「エジシ様も黥大夫様のことを気にかけておられました」


「三十年も行方を(くら)ましておいて、今さら気にかけていたもないものだ」


 とて苦笑する。次いで尋ねて言うには、


「で、彼は何と?」


はい(ヂェー)。『ジョルチ部とクル・ジョルチ部は、もとは同じ人衆(ウルス)』であるとおっしゃられました」

(注1)【憂慍(ゆううん)】憂えて怒ること。または、憂いと(いきどお)り。

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