第一二六回 ④
黥徒バルゲイを訪ねて回生の策を授け
太師ナオルに合して志士の蒙を啓く
一同に事の顛末を語れば、みなおおいに喜んでぞろぞろとソラの陣営に赴く。突然の来訪に件の従臣はあわてふためく。それを制してゲルに入れば、例の男も驚いて寝台から身を起こしかける。ソラは呵々と笑って、
「おう、少しは動けるようになってきたようだな」
一同を引き合わせたが、男は身動ぎもしない。
「なかなか強情な奴でしてね、名も言わんのですよ」
そう言いつつソラは上機嫌。命じて酒を運ばせると、寝台を囲むようにしてみなを座らせる。男にも有無を言わさず杯を握らせて、これになみなみと酒を注ぐ。あわてて身を起こした男は手中の杯とソラを交互に見つめた。
「さあ、遠慮なく飲め。そんな顔をするものではない」
さらに言うには、
「こちらのエジシ先生はもともとクル・ジョルチの方だが、今は中原にてジョルチン・ハーンの太師を務めておられる」
男はいよいよ驚いて、今度はエジシをまじまじと眺める。エジシは莞爾と笑って軽く一礼、余の好漢もまたそれぞれ名乗って杯を傾ける。座は早くもお決まりの宴の様相を呈して、もとより戦時なれども屈託ない笑い声が響く。
寝台上の男は漸く鬱屈が募ってか、俯いて杯が進んでいる様子もない。好漢たちの問いかけにも気のない返事をするばかり。ついにエジシが見かねて、
「貴殿は何か心に思うところがあるようですな。よろしければ我らに話してくれませんか」
すると男は卒かに激昂して、指突きつけて言うには、
「黙れ! 部族に叛き、敵を利するものに言うことはない!」
一同唖然として声もない。ひとつにはジョルチの太師たるエジシにかかる暴言を吐くなど思いも寄らなかったからであり、またひとつにはまさかクル・ジョルチにこのような忠臣があろうとは思わなかったからである。
当のエジシはといえば悲しげな顔で、
「私は思い違いをしていたようです。貴殿の目を見るに、心に大志を宿し、信義に倚る壮士かと思っておりましたが、どうやら違いましたか……」
これを聞くやますます激して、唇をぶるぶると震わせると、
「俺を不義の輩と謗るのか! 何をもってそう言うのだ。返答次第では容赦せぬぞ!」
今にも拏みかからん勢いに、好漢たちは俄かに色めき立つ。エジシはそれを制すると袖を払って座り直す。諭して言うには、
「よくお聴きなさい。今のクル・ジョルチに忠を尽くすは、すなわち上卿会議に忠を尽くすに等しい。これを不義と言わずして何と言うのです。すでにカンの令は行われず、奸侫邪臣が権勢をほしいままにしております。彼奴らは私欲のままに人衆を虐げ、忠臣を退け、乱に応じて法を犯し、弊に乗じて境を侵しております。これを覩るにどこに義がありましょうや」
じっと男の目を覗き込めば、動揺して眸子が揺れる。そこで言うには、
「壮士よ。大義とはすなわち上卿会議を打倒し、部族をカンの下、あるべき姿に復せしめることでしょう。決してこれに与して草原に無道を行うことではありません。私の言うことは誤っていますか?」
男は雷霆に撃たれたがごとく、はっとして瞠目する。エジシはさらに続けて、
「貴殿の忠心はこれを嘉するべきですが、いかんせん拠るべきものを誤っています。我らジョルチはウリャンハタのカンと結んで北伐の兵を興しましたが、それはクル・ジョルチを滅ぼすためではありません。むしろテンゲリに替わってその政道を匡し、乱れた西原に秩序と平和を復するためです。貴殿がまことに部族を想うのであれば、腐敗した上卿たちではなく我らをこそ恃むべきではありませんか?」
「お、お、おお……」
「また貴殿は忘れてはいませんか? ジョルチ部とクル・ジョルチ部は……」
一旦、言葉を切って息を調えると、ついに言うには、
「もとは同じ人衆です」
座はしんと静まりかえって言葉を発するものもない。それを破ったのは寝台上の男、卒かに台を下りて平伏すると、
「太師様こそ私の索めていた方です! 私とてもとより上卿専制に不満を抱き、部族の安危を憂えるものです。しかし生来才幹なく、気が逸るばかりで何をどうすればよいものか解らずにおりました。それを太師様は余さず解き明かしてくださいました。どうか私に、いえ、我が部族に進むべき道をお示しください!」
この豹変には居並ぶ好漢もおおいに驚く。さすがのソラも口を開けて見守るばかり。エジシはそっと手を差し延べて助け起こすと、
「情熱だけで大事を成すことはできません。明察と熟慮があって、始めて道は拓けるのです。さあ、面を上げて我々にクル・ジョルチの現状を教えてください」
「はい」
そこで隼将軍カトラが口を挟んで、
「ちょっと待った。俺たちはまだ君の名を知らぬ。志がひとつであることが明らかになった今、名を告げるに障はなかろう」
応じて力強く頷くと拱手して、
「そのとおりです。これまでの非礼はお恕しください。私は……」
さてこのとき告げられた名こそ、クル・ジョルチの歴史において特筆さるべきものにほかならない。
彼が好漢たちに心を開いたことから西原の情勢は俄かに風雲急を告げ、貪婪(注1)たる上卿はことごとく血の気を失い、一朝回天(注2)の業はおおいに完成に近づくことになるのだが、果たして男の名は何と云ったか。それは次回で。
(注1)【貪婪】きわめて欲の深いこと。むさぼり欲ばること。また、そのさま。強欲。
(注2)【回天】世の中の情勢を一変させること。