第一二六回 ②
黥徒バルゲイを訪ねて回生の策を授け
太師ナオルに合して志士の蒙を啓く
「し、しかしそれは……」
「最初に申し上げたはずです。すべてを棄てよ、と。それにハヤスン・カンは前のカンではありません。多くの人衆に支持された真の大カンです。すでに部族は危殆に瀕し、上卿専制が奏功した時代は過去になりつつあります。外憂迫る今、大カンを中心に部族がひとつに纏まらねば、この難局を超えることは難かろうかと存じます」
バルゲイは初めて在野に蔓延る志士の論を耳にして、言うべき言葉も知らない有様。ここにチンガイがあらば、男を瞬く間に斬り捨てていただろう。
さらに続けて言うには、
「しかしそのような名分は、今のバルゲイ様には必要ないでしょう。要はいかにすれば最も利になるか。上卿会議の支援なきまま王大母と戦うよりも、その理を認めて大カンの温情に縋るべきです。もともとバルゲイ様も大カンに仕えた上卿ではありませんか。大カンを廃する心があったわけでもありますまい。王大母と対立する時勢の流れの中で、偶々そうなっただけのこと。意を尽くして釈明すれば、大カンのことです、きっとお赦しになるでしょう」
バルゲイは滔々と流れる弁舌をあわてて遮って、
「少しお待ちください。突然のことで何が何やら……。それにそう容易にことが運びましょうか。何と云っても王大母とは不倶戴天の間柄にて……」
噴き出る汗を拭いつつ言えば、
「それはバルゲイ様次第。王大母殿は一世の女傑、旧怨に拘る人ではありません。こうして同じ氏族の中で干戈を交えていることこそ不本意であるに相違ありません。不倶戴天などと申しますが、その根を辿ってもつい先日のことに端を発しているに過ぎませんぞ」
そして語気強く言い放つ。
「小怨を顧みて大事を失ってはいけません」
その気迫に押されつつ言うには、
「し、しかし、チンガイが何と言うか……」
これを聞くと、卒かに声を大にして、
「独りチンガイと、数多の人衆と、どちらを恃みとなさるのですか。まことにバルゲイ様を護りうるのはチンガイ輩ではなく、名もない人衆です。違いますか?」
なおも逡巡したが、彼自身、男の言うことに順うのが最も賢明であることは解っていた。なるほど名案である。
それでも迷っているのは、単にガラコの軍門に降ることを恥じたからである。ゆえに男もあえて王大母に降れとは言わず、大カンに降るよう勧めたのだが、実際は同じことであるから躊躇するのも当然というもの。
「ご決断されれば、私が使者となってバルゲイ様の威を害わぬよう努めましょう」
そう言って促す。あとは考えるに任せて何も言わない。およそ一刻も経ったであろうか。やっと絞り出すように、
「……先生にお委せします」
禿げた頭を下げる。
「よくぞご決断されました。あとはお委せください」
喜んで退出しかけたが、ふと振り返ると、
「チンガイは……」
「あれは私の隷民に過ぎません。ご心配なく」
「そうですか、では」
去ろうとするのをあわてて呼び止めると、
「まだ先生のご芳名をお聞きしていませんでした」
するとからからと笑って、
「そんなことはどうでもよいのですが。ブリカガク氏のカンバルと申します。きっと良い報せを持って参ります」
男はカンバルであった。かつてウリャンハタ迎撃を進言したものの容れられず、かえって黥罪を得て追放されたあのカンバルである。その後、どこでどうしていたのか判らぬが、今になってゴコクの本営に現れたのであった。
カンバルは飄々と去っていったが、くどくどしい話は抜きにする。
そのころ衛天王カントゥカは、一旦軍を併せて次の進撃に備えていた。早馬を迎えた五手の軍勢は、約会して互いの戦果を誇り合った。たび重なる勝利で、ウリャンハタの版図は北へ大きく拡がった。
矮狻猊タケチャクの操る斥候によれば、クル・ジョルチ部はさらに西北方へ移動し続けているとのこと。
これを捕捉するべく進路が決定されると、麒麟児シンと一角虎スクが、勇躍して進発する。ほどなく花貌豹サチも発った。中軍は後衛としてその場に残った。
援軍であるジョルチ軍は、先行した三軍の援護に回る。一路西北へ走る友軍の側背を確保するのが任務である。胆斗公ナオルは、八千騎を率いて出立する。先駆けは赫彗星ソラである。
しばらくは何ごともなく進んだが、ある日、ソラは偶々前方に俯せに行き倒れている男を発見した。兵装であったが、肝心の馬の姿が見えない。おそらくクル・ジョルチの敗残兵であろう。
仁心を発揮してこれを車に乗せると、従臣の一人に介抱させた。まだ意識はないが、何か有益な情報を引き出せるかもしれない。しかしソラはいつの間にかそのことをすっかり忘れてしまっていた。