第一二五回 ④
ガラコ和を欲するも竟に兵鋒相交わり
デゲイ卿を罰して陰かに権柄を掌握す
ハルは返す言葉とてなく、がっくりと肩を落とす。眼前に展開するモルトゥ軍は一糸乱れず整然と布陣している。その勇名は轟いており、ここで争っても抗しがたいことは明白であった。
ハルはヤクタイに従って本営に移ると、膝を屈して寛恕を請う。モルトゥはいまだ四十になるかならぬかの壮年の将軍である。あわててハルの身を助け起こすと、
「このたびは不運でしたな。悪いようにはいたしません。まずはゆるりとお過ごしください」
老年の元上卿は、ほっとして幾度も礼を述べた。
モルトゥはシャガイ軍をふたつに分けると、半ばを返し、半ばを再編して帯同した。復命すると、デゲイが喜色満面でこれを迎える。混血児を得てより次々と政敵を追い落とし、今や上卿の中でも並ぶものなき権勢を誇るに至っている。
実はモルトゥはこの族長を激しく嫌っていた。そもそもモルトゥは野戦の名将であり、謀略の類を忌避していたから、詐術に長じるデゲイを快く思わないのは当然であった。当のデゲイはそんなことはまるで気づかぬ風に、
「バアトルよ。君の剛勇は、我がカンも恃みとするところだ。そこで君にカンの近衛軍を率いてもらいたい」
卒かに切りだせば、おおいに虚を衝かれる。デゲイが重ねて言うには、
「君の言いたいことはわかるよ。近衛の兵には、ほら、君の連れてきたシャガイの兵を充てるがよい」
すぐには答えず、むっとして押し黙る。というのも、今まで率いていた兵衆は自ら鍛え上げ、シュガク氏はもちろんクル・ジョルチの中でも中核を成すべき精鋭であったからである。
彼はこれを我が子のごとくかわいがっており、兵衆もまた彼をおおいに慕っていた。そこに突然の命令、モルトゥはこれを己と兵衆を引き離す奸計かと疑った。ゆえにすぐ返答しなかったのである。やっと自制して低い声で言うには、
「我が兵は誰が率いることになるのでしょう」
「ほっほっほ、案ずるな。将軍自ら鍛えた精鋭、粗末にはせぬ」
明言を避けたが、執拗に問えば、
「そう、オウタンを考えておる」
「オウタンですと!」
その名を聞いたモルトゥは全身の血が逆流する思い。なぜならオウタンとは名利を愛すること甚だしき小人、将才には乏しく、権勢に阿って軍中に地歩を築いたものだったからである。
ゆえに兵衆に人望がなく、それを補わんとしてか下々に対して威張り散らす傾向がある。猜疑心が強く、些細なことで人を罰することでも有名であった。要するに軍の頂点に立つようなものではまったくなかった。
モルトゥはみるみる険しい顔になると、ずいと身を乗り出して、
「族長、近衛軍の件は喜んでお受けいたしますが、オウタンに兵を与えることだけはお止めください」
「ほほう、なぜか?」
軽い調子の返答にますます激して、
「なぜとおっしゃるか。かの小人が任に堪えざることは明々白々です。そんなことは下々のものまで知っております」
デゲイはからからと笑う。意表を衝かれていると、
「世に聞こえたバアトルが、よもや誣告を為すとは思わなかった。僕はね、ゆえなき讒言が嫌いなの、わかる? あまりそんなことを言うと、品位を疑われることになるよ」
「…………」
モルトゥはやむなく口を噤む。内心はデゲイの口からそんな言葉が出たことに対する憤怒が渦巻いていた。しばらく黙って座っていたが、ついに一礼して去る。
デゲイは笑みを浮かべてこれを見送ると、ふうと大きな溜息を吐いた。奥よりムライが現れて、
「やはりバアトルと称されるだけのことはありますな」
「僕はあの男は嫌いだ」
「ふふ、だからこそその強兵を奪ったのではありませんか。しばらく奴は弱兵の調練に忙殺されるでしょう」
デゲイは眉を顰めて、
「あまり大きな声を出すな。バアトルには人望がある。誰が聞いているか判らぬ。ああ、それよりオウタンを召せ」
ムライは拝礼して退出したが、くどくどしい話は抜きにする。
さて上卿会議から見放された禿頭虎バルゲイは、軍を留めたまま頭を抱えていた。側近たる姦兇僕チンガイは単なる剣客の類にて、こうしたときには何の役にも立たない。黙って近侍するばかりである。
幾日か営しているうちに兵衆の脱走が相次ぐ。八千騎あったはずがいつの間にか五千騎を割り込む有様。バルゲイは知らなかったが、脱走した兵の一部は相対するガラコのクリエンに投じていた。
「このままでは居ながらにして兵を失ってしまう」
焦って兵を進めたが、再び散々に撃ち破られてさらに窮地に陥る。
そこへ一人の学士が訪ねてきたことから、漸くバルゲイは愁眉を開くことになる。まさしく旧悪を省みて自ら辞を卑くすれば、大仁に接して新たに禄を食むといったところ。
古言に「猟師も懐に入った窮鳥は撃たぬ」と謂うが、仁義に富んだ好漢ならなおさらのこと、たとえ不倶戴天の仇といえども、どうして窮したものを容れぬことがあろうか。さて禿頭虎を訪ねた学士とは誰であったか。それは次回で。