第一二三回 ③
イトゥク上将の傲岸に怒りて卒かに叛し
セイヂュク友軍の背叛に諦めて自ら刎す
クル・ジョルチ軍は鎧の欠片も残らぬほどの惨敗を喫して、ほうほうの体で退却した。セイヂュクも何とか猛追を振りきることができた。数十里も退いて待っていると、カヌン、コンゴルらも漸く逃げてくる。
かの凡将、ムラカムもよほど悪運が強いと見えて、数百の手勢とともに合流した。しかし戦場の昂奮いまだ冷めやらず、ついに高熱を発して臥してしまった。
靖難将軍イトゥクは同志の多くを討たれ、悲憤慷慨することしきりであった。言うには、
「無益だ、何のための流血か! 我が部族は滅ぶぞ!」
がっくりと膝を突いて号泣する。
カヌンがコンゴルに命じて残兵を数えさせたところ、半ば以上を失っていた。併せても三千騎に満たない。そこでセイヂュクに諮って、
「これでは戦にならぬ。退却しよう。直に上卿会議に乗り込んで援兵を要請せねば埒が明くまい」
さすがの猛将も続く敗戦にすっかりうち萎れて、すべてを委ねる。かくして力尽きた三千騎は、敵影に怯えつつ撤退の途に就いた。気は逸れども捗らぬ道程が幾日か続いた。ある日、野営していると哨戒兵が喜色満面で帰って告げた。
「イズム将軍のゴコク軍が近づいております」
疲れきった将兵はおおいに喜ぶ。コンゴルは自ら迎えようと十数騎を連れて陣を離れた。やがて土埃を上げてゴコク軍が来るのが見える。兵衆は歓声を挙げてこれを迎える。中には両手をいっぱいに振っているものもある。
軍勢は次第に近づいてくる。ますます大きくなる歓声。が、それを望見していたカヌンがふと眉を顰めて、
「何か妙ではないか?」
呟いたが誰も気に留めない。今やゴコクの軍勢は兵の顔すら識別できるほどに接近している。
と、不意に金鼓が兵衆の耳を貫いた。一瞬、虚を衝かれて言葉を失う。次の瞬間、兵衆の口からは等しく驚愕の声が挙がった。
矢が、ゴコク軍から雨のごとく矢が放たれたのである。恐慌に陥った兵衆は、わけがわからず叫び、走り、逃げ惑う。セイヂュクが手を振りながら走り出て、
「おおい、勘違いするな! 味方だ、味方の軍だぞ!」
しかし足を止めるどころか、得物を掲げて陣中に雪崩れ込む。兵衆は右往左往して片端から斃れていく。カヌンが馬を寄せて、
「族長! イズムは我らを裏切ったぞ、疾く逃げよ!」
「何だと、どういうことじゃ」
「奴め、我らを叛徒に擬するつもりじゃ。おそらく敗戦の責を逃れんとするためだろう」
これを聞いて老将軍は咆哮を挙げると、やにわに剣を抜いて斬りかかっていかんとする。カヌンはあわてて、
「やめておけ! 侫者の相手をすることはない」
「退け! それではわしの気が収まらぬ!」
老将二人が揉み合ううちにも哀れなタイクンの兵衆は次々と骸に変わる。百人長の一人が駆けつけて、
「もはや一刻の猶予もなりませぬ! 疾くお逃げください!」
セイヂュクはなおも踏み止まろうとしたが、やがて諦めると滂沱と涙を流しながら馬首を転じた。逃れえたのはセイヂュク、カヌン、そしてムラカムの三人の老将ばかりであった。
コンゴルは先に迎えに行った際、真っ先に討たれていた。イトゥクの行方も杳として知れない。従う兵は僅かに二十騎ほど。セイヂュクは馬を下りて座り込むと溜息を吐いて、
「よもや友軍に攻められるとは何たること……」
カヌンが励まして、
「この狼藉は上卿に訴えて衆議にかけねばなるまい」
すると小さく首を振って、
「無益じゃ。彼奴らは聴くまい。この歳になるまで部族のために微力を尽くしてきたが、ついに天地に行くところなき身となってしまった」
みな何と答えてよいやらわからずうなだれる。セイヂュクは独り口を開いて、
「もう、もうよい。わしは疲れた。我が至誠はテンゲリのみがご存知じゃ」
つと立ち上がって二、三歩進む。誰もが呆然としている。と、いきなりセイヂュクは剣を引き抜いて、己の頸脈に当てた。
「あっ!」
みなが叫ぶのと、剣が引かれたのは同時だった。鮮血が迸り、巨躯がぐらりと傾ぐ。血はあとからあとから際限なく溢れ飛ぶ。やがてどっと倒れる。
「おお、何ということを……」
居並ぶ諸将は悄然と主君の屍を眺めていた。誰からともなく啜り泣きはじめる。カヌンは目を伏せて、
「我が氏族は終わりだ。いや、クル・ジョルチも……」
しばらくの間、誰も動くことなくその場に座っていたが、そのうちに一人の兵が身を起こして、
「もう生きていてもしかたない」
小さく呟いたかと思うと、主君に倣って自刎して果てた。これを見て、ほかのものも何も言わずに己の得物を抜き放つ。