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草原演義  作者: 秋田大介
巻九
491/783

第一二三回 ③

イトゥク上将の傲岸に怒りて(にわ)かに叛し

セイヂュク友軍の背叛に諦めて自ら(ふん)

 クル・ジョルチ軍は鎧の欠片も残らぬほどの惨敗を喫して、ほうほうの(てい)で退却した。セイヂュクも何とか猛追を振りきることができた。数十里も退いて待っていると、カヌン、コンゴルらも(ようや)く逃げてくる。


 かの凡将(アルビン)、ムラカムもよほど悪運が強いと見えて、数百の手勢とともに合流(ベルチル)した。しかし戦場の昂奮いまだ冷めやらず、ついに高熱を発して()してしまった。


 靖難将軍イトゥクは同志(イル)の多くを討たれ、悲憤慷慨(こうがい)することしきりであった。言うには、


「無益だ、何のための流血か! 我が部族(ヤスタン)は滅ぶぞ!」


 がっくりと膝を突いて号泣する。


 カヌンがコンゴルに命じて残兵を数えさせたところ、半ば(ヂアリム)以上を失っていた。併せても三千騎に満たない。そこでセイヂュクに(はか)って、


「これでは(ソオル)にならぬ。退却しよう。直に上卿会議に乗り込んで援兵を要請せねば(らち)が明くまい」


 さすがの猛将(バアトル)も続く敗戦にすっかりうち萎れて、すべてを委ねる。かくして(クチ)尽きた三千騎は、敵影に怯えつつ撤退の途に就いた。気は(はや)れども(はかど)らぬ道程が幾日か続いた。ある(ウドゥル)、野営していると哨戒兵(カラウルスン)が喜色満面で帰って告げた。


「イズム将軍のゴコク軍が近づいております」


 疲れきった将兵はおおいに喜ぶ。コンゴルは自ら迎えようと十数騎を連れて(トイ)を離れた。やがて土埃(つちぼこり)を上げてゴコク軍が来るのが見える。兵衆は歓声を挙げてこれを迎える。中には両手をいっぱいに振っているものもある。


 軍勢は次第に近づいてくる。ますます大きくなる歓声。が、それを望見していたカヌンがふと(フムスグ)(ひそ)めて、


「何か妙ではないか?」


 呟いたが誰も気に留めない。今やゴコクの軍勢は兵の(ヌル)すら識別できるほどに接近(カルク)している。


 と、不意に金鼓が兵衆の(チフ)を貫いた。一瞬、虚を衝かれて言葉(ウゲ)を失う。次の瞬間、兵衆の(アマン)からは等しく驚愕の(ダウン)が挙がった。


 矢が、ゴコク軍から(クラ)のごとく矢が放たれたのである。恐慌に(おちい)った兵衆は、わけがわからず叫び、走り、逃げ惑う。セイヂュクが(ガル)を振りながら走り出て、


「おおい、勘違いするな! 味方(イル)だ、味方の軍だぞ!」


 しかし(フル)を止めるどころか、得物を掲げて陣中に雪崩(なだ)れ込む。兵衆は右往左往して片端から(たお)れていく。カヌンが(アクタ)を寄せて、


族長(ノヤン)! イズムは我らを裏切ったぞ、疾く逃げよ!」


「何だと、どういうことじゃ」


「奴め、我らを叛徒(ブルガ)に擬するつもりじゃ。おそらく敗戦の責を逃れんとするためだろう」


 これを聞いて老将軍は咆哮を挙げると、やにわに(ウルドゥ)を抜いて斬りかかっていかんとする。カヌンはあわてて、


「やめておけ! 侫者の相手をすることはない」


退()け! それではわしの気が収まらぬ!」


 老将二人が揉み合ううちにも哀れなタイクンの兵衆は次々と(むくろ)に変わる。百人長(ヂャウン)の一人が駆けつけて、


「もはや一刻の猶予もなりませぬ! 疾くお逃げください!」


 セイヂュクはなおも踏み止まろうとしたが、やがて諦めると滂沱(ぼうだ)と涙を流しながら馬首を転じた。逃れえたのはセイヂュク、カヌン、そしてムラカムの三人の老将ばかりであった。


 コンゴルは先に迎えに行った際、真っ先に討たれていた。イトゥクの行方も(よう)として知れない。従う兵は僅かに二十騎ほど。セイヂュクは馬を下りて座り込むと溜息を()いて、


「よもや友軍に攻められるとは何たること……」


 カヌンが励まして、


「この狼藉は上卿に訴えて衆議にかけねばなるまい」


 すると小さく首を振って、


「無益じゃ。彼奴らは聴くまい。この歳になるまで部族(ヤスタン)のために微力を尽くしてきたが、ついに天地に行くところなき身となってしまった」


 みな何と答えてよいやらわからずうなだれる。セイヂュクは独り口を開いて、


「もう、もうよい。わしは疲れた。我が至誠(チン)はテンゲリのみがご存知じゃ」


 つと立ち上がって二、三歩進む。誰もが呆然としている。と、いきなりセイヂュクは剣を引き抜いて、己の頸脈(スヂャス)に当てた。


「あっ!」


 みなが叫ぶのと、剣が引かれたのは同時だった。鮮血が(ほとばし)り、巨躯がぐらりと(かし)ぐ。(ツォサン)はあとからあとから際限なく溢れ飛ぶ。やがてどっと倒れる。


「おお、何ということを……」


 居並ぶ諸将は悄然と主君(エヂェン)の屍を眺めていた。誰からともなく(すす)り泣きはじめる。カヌンは(ニドゥ)を伏せて、


「我が氏族(オノル)は終わりだ。いや(ブルウ)、クル・ジョルチも……」


 しばらくの間、誰も動くことなくその場に座っていたが、そのうちに一人の兵が身を起こして、


「もう生きていてもしかたない」


 小さく呟いたかと思うと、主君に(なら)って自刎(じふん)して果てた。これを見て、ほかのものも何も言わずに己の得物を抜き放つ。

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