第一二一回 ③ <カンバル登場>
セイヂュク上卿に謀られ独り麒麟児に対し
イトゥク義憤に駆られて俱に靖難社を興す
「押せ、押せ!」
ウリャンハタ軍は勢いに乗って逐いはじめる。後方を預かるタクカは本営を前進せしめ、戦況を見ながら次々と命を下す。それを受けたタケチャクの一隊が戦場を駆け回ってこれを伝える。
タイクンの中軍にはカヌンが在ったが、ついに退却の銅鑼を鳴らさせた。それを聞くや、何とか踏み止まっていた兵衆も馬首を転じて一斉に潰走する。シン・セクらはこれを散々に追撃して、漸く兵を収めた。
数十里も撤退してやっと陣を立て直すと、セイヂュクはカヌンに言った。
「なぜ退却させたのだ。口惜しや!」
答えて言うには、
「あのまま粘っていたら、この程度ではすまなかったぞ。退くは恥ではない。用兵のひとつじゃ」
それでも怒気は治まらず、
「ふん、『走るを上と為す』というわけか」
吐き捨てる。カヌンは宥めて、
「逃走ではない。転じて進んだのだ。次の戦闘で雪辱すればよい」
コンゴルも同意して、
「それにムライ殿が援軍を連れてくるはずです」
「おお、そうだ。混血児のことを忘れておったわ」
セイヂュクは途端に機嫌を直すと、溌剌とした様子で陣中を見回りに出る。あとに残ったカヌンは、俄かに険しい表情になるとコンゴルを顧みて、
「お主、混血児の言葉、信用するか?」
すると眉を顰めて、小声で言うには、
「……いえ、私はもともとあの男に信を置いておりません」
「お主もか。実はわしもじゃ。何か善からぬ企みを抱いているに違いない」
頷いて、
「我らは我らで諸氏に援軍を求めましょう。今は危急存亡の秋なれば、日ごろは反目していても必ず救援の手が差し延べられましょう」
カヌンはすぐには答えなかったが、やがて言った。
「……まあ、やってみるがいい」
コンゴルが去ると独り呟いて、
「これでなお内訌の炎が消えねば、我が部族は滅ぶ……」
さて上卿会議は、ウリャンハタの北進に対してタイクン軍を派遣したほかは無策であった。しかしクル・ジョルチにも憂国の士と云うべきものが皆無だったわけではない。それは特権にしがみつく上卿よりも、むしろ下層の人士の中にあった。
彼らの一部は上卿のもとへ押しかけて、出兵を主張、あるいは嘆願した。だがいずれも上卿は言を左右して躱すばかり。おかげで多くの人士は憤怒し、憂悶した。ブリカガク氏のカンバルもその一人であった。その人となりはと云えば、
身の丈は七尺、年のころは五十前後、髪は黒く、額は濶く、唇は方にして、口は正しく、官と為りては清正、事を作しては廉明、温順篤実をもってその名を知られる好漢。
彼はまず族長であるオクドゥへ訴えたが、聞き容れられなかった。オクドゥが言うには、
「老公がまさに戦っているのに援軍など送っては、これを辱めることになろう。先方より要請があれば考えぬでもないが」
カンバルは呆れて、
「戦は迅速を尊びます。実に敵勢は数万、老公独りで抗しえぬは明々白々ではありませんか。すぐにも兵を送らねば手遅れとなりますぞ」
さらに理を尽くさんとすれば卒かに怒りだして、
「何だ、お前は! これは上卿会議の決定である。それに異を唱えるは反逆であるぞ。このたびは赦してやるが、再び衆を惑わす言あらば容赦せぬ。下がれ!」
カンバルは瞠目して言葉を失い、早々に退去した。そしてテンゲリを仰ぐと、
「頽廃ここに極まれり! 西遷(注1)以来百年、クル・ジョルチの命運は尽きたか……」
世に侫者が権力を掌握すれば周囲には小侫者が溢れるものだが、カンバルの発言を偶々聞いたものがって、たちまち密告に及んだ。部族を呪詛したと誣告したのである。ためにカンバルは捕らえられて放逐されることになった。溜息を吐いて、
「三十年前のエジシの選択はまったく正しかった。彼が部族を離れたときは、やれ狂人だの愚者だのと散々に揶揄されたものだが、今なら私にも理解できる。ああ、やはり彼は明哲の人であった」
エジシとは言うまでもなくジョルチの太師のことである。お忘れの方も多いかもしれぬが、太師はブリカガク氏の出自(注1)である。カンバルは若年のころにこれと親交を結んでいたことを、このときになって思い出したのだった。
彼は黥罪(額に墨を入れられる刑罰)を得て、徒歩のままアイルから三百里の地に放たれた。そのあとどうしたかはいずれ判ることゆえ、ここでは触れない。
またシュガク氏に一人の老将があって、名をムラカム・クシと云う。セイヂュクとは盟友の契りを結んでいた。彼は盟友の苦衷を察して、族長たるデゲイを訪ねると出兵を嘆願した。
最初は渋っていたデゲイだったが、ついにそれを了承する。これはデゲイがブリカガク氏のオクドゥより賢明だったためではない。実はその逆である。
(注1)【西遷】クル・ジョルチ部の成立については、第 一 回④参照。
(注2)【ブリカガク氏の出自】若いころのエジシについても、第 一 回④参照。