表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草原演義  作者: 秋田大介
巻九
483/783

第一二一回 ③ <カンバル登場>

セイヂュク上卿に謀られ独り麒麟児に対し

イトゥク義憤に駆られて(とも)に靖難社を興す

「押せ、押せ!」


 ウリャンハタ軍は勢いに乗って()いはじめる。後方を預かるタクカは本営(ゴル)を前進せしめ、戦況を見ながら次々と(カラ)を下す。それを受けたタケチャクの一隊が戦場を駆け(めぐ)ってこれを伝える。


 タイクンの中軍(ゴル)にはカヌンが在ったが、ついに退却の銅鑼を鳴らさせた。それを聞くや、何とか踏み止まっていた兵衆も馬首を転じて一斉に潰走する。シン・セクらはこれを散々に追撃して、(ようや)く兵を収めた。


 数十里も撤退してやっと(デム)を立て直すと、セイヂュクはカヌンに言った。


「なぜ退却させたのだ。口惜(くちお)しや!」


 答えて言うには、


「あのまま粘っていたら、この程度ではすまなかったぞ。退くは恥ではない。用兵のひとつじゃ」


 それでも怒気は治まらず、


「ふん、『(にぐ)るを上と為す』というわけか」


 吐き捨てる。カヌンは(なだ)めて、


逃走(オロア)ではない。転じて進んだのだ。次の戦闘(カドクルドゥアン)で雪辱すればよい」


 コンゴルも同意して、


「それにムライ殿が援軍(トゥサ)を連れてくるはずです」


「おお、そうだ。混血児(カラ・ウナス)のことを忘れて(ウマルタヂュ)おったわ」


 セイヂュクは途端に機嫌を直すと、溌剌(はつらつ)とした様子で陣中を見回りに出る。あとに残ったカヌンは、俄かに険しい表情になるとコンゴルを顧みて、


「お主、混血児の言葉(ウゲ)、信用するか?」


 すると(フムスグ)(しか)めて、小声で言うには、


「……いえ(ブルウ)、私はもともとあの男に信を置いておりません」


「お主もか。実はわしもじゃ。何か善からぬ企みを抱いているに違いない」


 頷いて、


「我らは我らで諸氏に援軍を求めましょう。今は危急存亡の(とき)なれば、日ごろは反目していても必ず救援の(ガル)が差し延べられましょう」


 カヌンはすぐには答えなかったが、やがて言った。


「……まあ、やってみるがいい」


 コンゴルが去ると独り呟いて、


「これでなお内訌(ブルガルドゥアン)(ガル)が消えねば、我が部族(ヤスタン)は滅ぶ……」




 さて上卿会議は、ウリャンハタの北進に対してタイクン軍を派遣したほかは無策であった。しかしクル・ジョルチにも憂国の士と云うべきものが皆無だったわけではない。それは特権にしがみつく上卿よりも、むしろ下層の人士の中にあった。


 彼らの一部は上卿のもとへ押しかけて、出兵を主張、あるいは嘆願した。だがいずれも上卿は言を左右して(かわ)すばかり。おかげで多くの人士は憤怒(アウルラアス)し、憂悶した。ブリカガク氏のカンバルもその一人であった。その人となりはと云えば、


 身の丈は七尺、年のころは五十前後、髪は黒く、(マグナイ)(ひろ)く、(オロウル)は方にして、(アマン)は正しく、官と為りては清正、事を()しては廉明、温順篤実をもってその名を知られる好漢(エレ)


 彼はまず族長(ノヤン)であるオクドゥへ訴えたが、聞き容れられなかった。オクドゥが言うには、


「老公がまさに戦って(アヤラクイ)いるのに援軍など送っては、これを(はずかし)めることになろう。先方より要請があれば考えぬでもないが」


 カンバルは呆れて、


(ソオル)迅速(クルドゥン)を尊びます。実に敵勢は数万、老公独りで抗しえぬは明々白々ではありませんか。すぐにも兵を送らねば手遅れとなりますぞ」


 さらに(ヨス)を尽くさんとすれば(にわ)かに怒りだして、


「何だ、お前は! これは上卿会議の決定である。それに異を唱えるは反逆(ブルガ)であるぞ。このたびは(ゆる)してやるが、再び(バルアナチャ)を惑わす言あらば容赦せぬ。下がれ!」


 カンバルは瞠目して言葉を失い、早々に退去した。そしてテンゲリを仰ぐと、


「頽廃ここに極まれり! 西遷(注1)以来百年、クル・ジョルチの命運(ヂヤー)は尽きたか……」


 世に侫者が権力を掌握すれば周囲には小侫者が溢れるものだが、カンバルの発言を偶々(たまたま)聞いたものがって、たちまち密告に及んだ。部族(ヤスタン)呪詛(ハラアル)したと誣告(ぶこく)したのである。ためにカンバルは捕らえられて放逐されることになった。溜息を吐いて、


「三十年前のエジシの選択はまったく正しかった。彼が部族(ヤスタン)を離れたときは、やれ狂人(ガルゾウ)だの愚者(アルビン)だのと散々に揶揄(やゆ)されたものだが、今なら私にも理解できる。ああ、やはり彼は明哲の人であった」


 エジシとは言うまでもなくジョルチの太師のことである。お忘れの方も多いかもしれぬが、太師はブリカガク氏の出自(ウヂャウル)(注1)である。カンバルは若年のころにこれと親交を結んでいたことを、このときになって思い出したのだった。


 彼は(げい)罪(額に墨を入れられる刑罰)を得て、徒歩のままアイルから三百里の(ガヂャル)に放たれた。そのあとどうしたかはいずれ判ることゆえ、ここでは触れない。


 またシュガク氏に一人の老将があって、名をムラカム・クシと云う。セイヂュクとは盟友(アンダ)の契りを結んでいた。彼は盟友(アンダ)の苦衷を察して、族長(ノヤン)たるデゲイを訪ねると出兵を嘆願した。


 最初は渋っていたデゲイだったが、ついにそれを了承する。これはデゲイがブリカガク氏のオクドゥより賢明(ボクダ)だったためではない。実はその逆である。

(注1)【西遷】クル・ジョルチ部の成立については、第 一 回④参照。


(注2)【ブリカガク氏の出自】若いころのエジシについても、第 一 回④参照。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ