第一二〇回 ③
四頭豹トオレベを弑逆して幼主を奉じ
超世傑クリルタイに登極して人衆を靖んず
万事遺漏なく進んで、ついにテンゲリに新しきハーンを告げるときが来る。ジョナンの長老が左右の援けを借りつつ壇上に上がると、興奮する人衆を制して悠揚迫らぬ調子で告げて言うには、
「すべてのヤクマンの人衆は一致して、ジョナン氏族長ムジカを財の庇護者として、法の執行者として、我らのハーンとして戴くことを祖宗に、そして大なるテンゲリに報せよう。願わくばテンゲリの祝福あらんことを!」
後段は長老の声も震え、興奮の極にあることを示す。どっと歓声が巻き起こり、群衆は右手を突き上げて新たなハーンの誕生を称えた。大歓声はうねりとなってエトゥゲンを揺らし、テンゲリに谺した。
壇上にムジカが上がると、場は途端に静かになった。みな固唾を呑んで、新しき主君の言葉を待ったのである。ムジカはゆっくりと周囲を見わたすと、
「我らヤクマンの民は、かつて英王を戴き、草原に仇をなし、不義不仁の汚名をほしいままにした。同じ草原に牧する人衆を害し、長城の南にある中華の狗となって乱を為すこと長きに亘った。これはヤクマンの第一の大罪である。今よりこれを改め、草原の民としての誇りを持ち、草原の法を行い、祖宗に愧じるところなきよう、乱世の終息に精励するべきである」
一旦言葉を切れば、どっと歓声が起こる。それを制すると、
「故英王は色目人を重用し、祖宗の法を変え、部族の善き慣習をことごとく毀ち、ついには四頭豹なる奸臣を登用して人衆の安寧を奪った。かの奸臣は妖婦と結託して人衆を危難に陥れ、道を過った。これはヤクマンの第二の大罪である。今よりこれを改め、すべての良心ある人衆がその生命を保ち、その家財を保ち、その親族を保つことができるよう、心を砕くべきである」
またもや歓声。そして、
「故英王が、ついには四頭豹に政事の壟断を許し、凶刃の下に斃れたことはまったく部族の恥辱である。ただならぬ乱世にありながら、いたずらに手を拱いて幼主を戴くまでに堕してしまった。これはヤクマンの第三の大罪である。今よりこれを改め、奸臣を放逐し、苛政に苦しむ人衆を救い、部族の栄光を復するべきである」
歓声。最後にムジカはインジャやギィらを指して、
「妄執を脱し、法規ある草原の民としての矜持を恢復することができたのは、赤心王ジョルチン・ハーンの聖徳の賜物である。我らヤクマンの人衆は大ハーンの志に従い、草原に大法を、人衆に安寧を得るべく駆けるべきである。それによって大罪を贖い、子孫に禍を残さぬよう努めるべきである。私はマシゲルのアルスラン・ハンに倣って『ハーン』の称号を憚り、ただ『ハン』をもって我が称とするだろう」
これも大歓声をもって迎えられる。方々からムジカともにジョルチン・ハーンやアルスラン・ハンを称える声が相次ぐ。
この日を境にムジカは、「ムジカ・ハン(慕直合罕)」、あるいは敬意を込めて「クルゥド・ハン(俊傑合罕)」と呼ばれることになった。
またそれに伴ってタゴサがハトンに冊立され、アステルノ、キレカ、オラルの三人が万人長に任じられた。ソラ以下の諸将は千人長となる。
一連の儀式が終わると牛を屠り、羊を割いて、盛大な宴が催される。多くの人衆にも馬乳酒が行きわたり、陽が落ちたあとも篝火を焚いて、歓呼の声はいつ果てるともしれない。ここでも「奔馬と戯れる」が高らかに演奏されたのは言うまでもない。
散会したのは夜も更けてからのこと。翌日にはそれぞれ帰途に就いたが、ムジカらジョナンの好漢はこれをいちいち見送っては謝意を表す。
最後にインジャたちが発ったが、ムジカはこれを三十里ほども送っていく。別れ際にまた席を設けて宴に興じ、一夜を過ごしたがくどくどしい話は抜きにする。
さて、ムジカの即位は南原の人衆への影響すこぶる大きく、しばらくするとこれに投じるものが相次いだ。十人、百人、ときには千人もの民が車を連ね、老人の手を引き、赤子を抱いてムジカ・ハンの庇護を求めたのである。
こうして南征に敗れたにもかかわらずムジカの、すなわちインジャの人衆、家畜は増加の一途を辿った。
ムジカは定期的に奔雷矩オンヌクドをオルドへ派し、人衆の帰投を逐一報告に及んだ。ハンとなっても忠順なる義君の臣であることを内外に示したのである。その謹厳実直な態度を伝え聞いて、もとからの僚友も襟を正してインジャに仕えるようになった。
これはかつてサノウが危惧したように、インジャがその僚友をあくまで兄弟として遇し、決して臣下として扱わなかったため、次第に忠勤の心に緩みが生じて上下の順が乱れ、放埓に堕しかけていたのを戒めることになった。
以来、インジャの制定した法は遵守されるようになり、より強固な体制が確立したのである。
ヤクマンの五氏族は、すべての牧地、兵衆、家畜はジョルチン・ハーンから預かったものであると強く認識していた。それが浸透していったのである。顧みれば誰もが義君なしでは部族、氏族を保つことができなかったことに漸く思い至ったのである。
が、当のインジャ自身は僚友を遇すること今までどおりで、接するに温顔をもってし、これを恃みとし愛すること何ら変わらなかった。そのことは彼らにより敬愛の念を抱かしめることになった。
南征による疲弊を脱して国力を恢復するべく、黄金の僚友は日々怠らず尽力した。増大した牧地を繋ぐ駅站も着々と整備された。新たに徴用された兵卒には厳しい調練が施された。壮丁の士卒に志願するものは軍営に長蛇の列を成した。
こうして瞬く間にジョルチの国勢は往時に勝るほどになったが、この話はここまでにする。