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草原演義  作者: 秋田大介
巻八
476/783

第一一九回 ④

インジャ命名に窮して太師を召して(はか)

サノウ法術を説きて義君に請いて辞す

 インジャはううむと唸って黙り込んでしまう。しばらくして言うには、


「ではこうしよう。断事官(ヂャルグチ)の任を解く。代わりに位を一等減じて司法官(ヂャサウル)とし、これまでどおりに政務を総攬(そうらん)しては」


 これは我ながら名案に思えた。ところが即座にサノウは、


「お断りします」


「なぜだ!」


 思わず色を成して叫べば、顔色ひとつ変えずに、


「実はこれを最後の上奏にしようと決意して参りました。畢竟、私は市井の一学士に過ぎず、経綸の(アルガ)に欠けたることを痛感いたしました。ハーンの厚い信頼(イトゥゲルテン)に応えることはできません。ジョルチを去り、野に下ることこそ臣の望みです」


「何と……」


 あまりの衝撃に言葉(ウゲ)を失う。サノウは(うつむ)いたまま、


「臣の望みを何とぞお聞き届けください」


 インジャははっとして立ち上がると、(ハツァル)を紅潮させて、


「ならぬ! 許さぬぞ。我らはまだ何も成しえておらぬではないか。南原には英王と四頭豹が盤踞し、乱世は終息していない。今、軍師に見放されたらどうすればよいのだ」


「私のようなものはいくらでも代わりがおります。憂えるには及びません」


「そんなわけが……」


「そもそも私はハーンの信頼をよいことに、あまりに大権をほしいままにしておりました。これは異常と云うべきで、健全な国家(ウルス)姿(カラア)ではありません。権能を分散して、それらを独りハーンが総攬されますよう」


 インジャは呆然として立ち尽くす。やがて言うには、


「そうは言うが、いったい何をどうすればよいのか。君がもし去ったら、私は誰を(たの)めばよいのだ」


 サノウは(ヌル)を上げると滔々(とうとう)と述べて、


「まさか黄金の僚友(アルタン・ネケル)に人なしとは申されますまい。人臣の長たる断事官には人望厚い右王ナオル殿が適任でしょう。行政には美髯公(ゴア・サハル)ハツチが、(エド)の管理には豬児吏トシロルが、祭祀には通天君王マタージ・ハンが、司法官には長韁縄(デロア・オルトゥ)サイドゥが、軍事には超世傑ムジカら五将を得たほか、もとより霹靂狼トシ殿があり、謀議については百策花セイネンと百万元帥トオリルがおります。また(ウリダ)には獅子(アルスラン)ギィ殿が、西(バラウン)には衛天王カントゥカ殿があります。何を憂えることがありましょう」


「……しかし」


いえ(ブルウ)、私の(オロ)は変わりません。ハーンのご不興を(こうむ)ろうとも譲れませぬ」


 インジャは悲痛な表情で尋ねて言うには、


「軍師はここを去って何処に参るのか」


「しかとは決めておりませぬ」


 そう答えたが、それは行き先を告げれば必ず迎えが来ることがわかっていたので、あえて秘密(ニウチャ)にしたのである。それを察したインジャは、サノウの決意のほどを知って大きく溜息を吐くと、


「よろしい。今はやむをえぬ。だがいずれ必ず相見(あいまみ)えようぞ。……僚友(ネケル)を招集して送別の宴を開こう」


 やはり首を振って、


「それも辞退させていただきます。元来私は衆に交わることを苦にしています。まして私は敗戦の責を問われて失脚する身です。そんなことをされては(ヂャサ)を明らかにすることになりません」


 ますますがっかりして、


「しかしそれではみなに軍師の真意(カダガトゥ)が伝わるまい。せめて後事を託すものにだけでも意図を明らかにしておいたほうがよいのではないか。またそれが礼というものだろう」


 サノウは初めて頷きかけたが、首を捻ると、


いえ(ブルウ)、それもやめておきましょう。私は今日のうちに密かに去ります」


 インジャは何とかこれを引き留めようと試みたが、サノウは一度言いだしたら決して(くつがえ)さない性分(チナル)だったので、ことごとく徒労に終わった。結局インジャは黙って見送るしかなかった。


 こうして獬豸(かいち)軍師サノウは何処かへと去っていった。その後、どうしたかはいずれ判ることゆえ、くどくどしくは述べない。


 インジャはおおいに落胆しつつサノウの解任を公表した。すべての好漢(エレ)人衆(ウルス)はこれを聞いて愕然とした。


 その狷介(けんかい)(注1)ぶりから少しく彼を敬遠していたもの、例えばナハンコルジやタンヤンなどもテンゲリを仰いで慨嘆し、これを惜しんで()まなかった。


 インジャは解任に至る顛末(ヨス)についてひと言も語らなかったが、僚友たちはサノウの日ごろの言動からだいたいの事情(アブリ)を推察して、また嘆き合った。


 以後、断事官の職は廃されて後任は指名されなかった。その政務はナオルやセイネン、ハツチらが分担して補ったが、この話はここまでにする。


 南征より撤退してから、ヴァルタラの誕生、シャジの死、サノウの下野といろいろなことが次々と起こった。


 インジャらはそのたびに喜んだり悲しんだり嘆いたりと慌ただしく過ごしていたが、事件というのは起こりはじめるとうち続くものらしく、さらに西と南から新たな報が舞い込んで彼らを驚かせることになる。


 まさしく(テンギス)(チラウン)を投じれば波紋はどこまでも広がり、南征の余波は兵を収めてもなお消えずといったところ。果たしていかなる報がもたらされたか。それは次回で。

(注1)【狷介(けんかい)】自分の意志をかたく守って、妥協しないこと。人と相容れないこと。他者と打ち解けないこと。

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