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草原演義  作者: 秋田大介
巻八
475/783

第一一九回 ③

インジャ命名に窮して太師を召して(はか)

サノウ法術を説きて義君に請いて辞す

 インジャは幼子(チャガ)をアネクに返してともに高き座(オンドゥル)に上がると、居並ぶ諸将を見わたして言った。


「我々はこの敗北を決して忘れまい。悔咎(かいきゅう)(注1)を(かて)にして必ずや四頭豹を討ち、草原(ミノウル)平和(ヘンケ)を、人衆(ウルス)安寧(オルグ)をもたらそうと思う。そこでこの新しい生命に『ウル・ウマルタク・ヴァルタラ』の名を授けよう」


 期せずしてどよめきが起こる。傍ら(デルゲ)のアネクも瞠目して呟く。


()()()()()()()()()……」


 すかさず胆斗公(スルステイ)ナオルが進み出て、


「まことに嘉名かと存じます。敗北に(みだ)れず、勝利に(おご)らざる名です。上下の(オロ)をひとつにし、大願に向かって邁進せしめる名です。もとより壮士は屈してのち初めて伸び、義士は()げてのちかえって(なお)くなるもの。ハーンのすべての盟友(アンダ)僚友(ネケル)、群臣は、その名を聞き及んで奮起せぬものはないでしょう」


 その(ウドゥル)のうちに四方に早馬(グユクチ)が送られて、ハーンの嫡子(ティギン)の誕生とその名が伝えられた。ナオルが言ったとおり、ヴァルタラの名を聞いて誰もが心を動かし、固く再起を誓った。


 ヴァルタラには乳母を立てず、ハトン(みずか)(スン)を与えて養育することにした。太后ムウチをはじめ、鑑子女テヨナ、小白圭シズハン、神餐手アスクワなどがこれを輔ける。


 その揺籠(オルゲイ)はウリャンハタ部から贈られた。手先の器用な娃白貂(あいはくちょう)クミフが手ずから作ったものである。


 またヴァルタラは実によく泣く赤子(ニルカ)で、昼夜を問わずハトンを悩ませた。ときに苛立ってインジャに当たり散らしたが、さしもの義君もこれを(なだ)めることはできなかった。ある日、見かねたムウチがこれを(さと)して言うには、


「よく泣くのはむしろ剛毅(クルグ)な証拠。長ずればむしろ沈着にして寛容な丈夫(エレ)になるでしょう。インジャとて小さいころはそれはよく泣き(わめ)いて私を困らせたものです」


 アネクは意外そうな(ヌル)をしたが、悟るところがあったのか、以後は子に振り回されることはなくなった。


 そんなヴァルタラもなぜか好漢(エレ)たちの集う席では決まって上機嫌で、喧騒や怒号が起こるとかえって笑い声を挙げた。吞天虎コヤンサンはおおいに喜んで、


「御子は生まれながらに好漢の交わりをご存知でいらっしゃる!」


 黄金の僚友(アルタン・ネケル)はおおいに笑って、ヴァルタラを我が子のごとく愛した(アマラヂュ)が、この話はここまでにする。




 新たに生まれるものあらば、去りゆくものがあるのが世の常である。ジョルチにおいても例外はなく、(ヂル)が明けてまもなくひとつの訃報に接することになった。


 というのは、往不帰シャジが先の(ソオル)で受けた矢傷がもとで死んだのである。ジョンシ氏の宿将として部族(ヤスタン)を支え続けた武人の死を、インジャは滂沱(ぼうだ)と涙を流して(いた)んだ。


 その(チナル)は剛直にして清廉であった。若い将領の多いジョルチにあって、その豊富な経験は貴重であった。諸将にとっては叔父(アバガ)のような存在であった。そもそもインジャの初陣から従っている数少ない武将であった。


 ナオルが最期の言葉(ウゲ)を伝えて、


「シャジは死ぬ直前まで聖恩に拝謝し、四頭豹を討てなかったことを悔いておりました。そしてご嫡子誕生でみなが喜んでいるのに(オス)を差してしまうのではないかとそればかり気にして、死後も誰にも知らせぬようなどと申しておりました」


「何と愚かなことを。シャジは最も長く私に仕えている将ではないか。そもそも最初に私とナオルを会わせてくれたのがシャジであった(注2)。すべてはあの日から始まったと言ってもよい。シャジなくんば今日の我らもまたなかっただろう」


 ナオルも(ヂャカ)を濡らしながら、ただただ頷く。


 インジャは勅命(ヂャルリク)を下してその功績を(たた)え、ハクヒと同じく万戸侯に列して「猛奮将軍」の称号(ツォル)を与えた。またその(クウ)(注3)を百人長(ヂャウン)に任じてナオルに仕えさせた。




 それらのことがことごとくすんだある日、獬豸(かいち)軍師サノウが拝謁を求めた。その言葉はインジャをひどく驚かせた。何と言ったかと云えば、


「私の断事官(ヂャルグチ)の職を解き、天下に義の存するところをお示しください」


 呆気にとられて、


「なぜそのようなことを言う。君は我がジョルチに唯一(ガグチャ)の軍師、信頼(イトゥゲルテン)ある断事官だ」


 答えて言うには、


「先の南征において利を得なかったのは、すべてこのサノウの浅慮に因るものです。ゆえに私を罰して、(ヂャサ)の公平たることを万民に知らしめることが肝要です。軍に信賞必罰の(ヨス)がなければ、必ずその兵は弱くなります」


 インジャは(フムスグ)(しか)めて、


「しかし南征の罪責については不問に処すること、アラクチワド・トグムにて確認したではないか。重要なのは昨日の敗戦ではなく、明日の勝利だと」


 それでもサノウの表情は変わらない。説いて言うには、


「だからこそ法規ある賞罰を徹底しなければならないのです。兵略における過失(アルヂアス)(ガル)を見るよりも明らかです。ならば策戦を立案したものを罰するのは当然です」


「だがそもそも軍師は、オロンテンゲルの山塞に逼塞(ひっそく)せるころより、我が部族(ヤスタン)を導いて過誤なからしめた第一の功臣。ただ一度の過失をもってこれを除くとは、あまりに不仁というものだ」


「僭越ながらそれはお考えが違っておりましょう。功は功、罪は罪です。功に対しては十分に褒賞をいただいておきながら、罪だけを(まぬが)れては(ヂャサ)は行われなくなります。(ヂャサ)の執行に情誼を挟んで、()しき前例を残してはいけません。ハーンの僚友といえども厳正に(ヂャサ)が適用されることを知れば、臣民はいっそう気を引き締めて責務(アルバ)を怠らなくなりましょう。かくして(ウルス)は富み、兵は強くなり、いつか大業を成就することもできるのです」

(注1)【悔咎(かいきゅう)】過去の失敗や罪。過ち。


(注2)【最初に私とナオルを……】二十三年前、二人が六歳のころのこと。第 三 回②参照。


(注3)【その(クウ)】かつてインジャ即位の際、シャジの子はナーダムの競馬に出場している。当時七歳、それから五年経っている。第六 〇回③参照。

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