第一一九回 ③
インジャ命名に窮して太師を召して諮り
サノウ法術を説きて義君に請いて辞す
インジャは幼子をアネクに返してともに高き座に上がると、居並ぶ諸将を見わたして言った。
「我々はこの敗北を決して忘れまい。悔咎(注1)を糧にして必ずや四頭豹を討ち、草原に平和を、人衆に安寧をもたらそうと思う。そこでこの新しい生命に『ウル・ウマルタク・ヴァルタラ』の名を授けよう」
期せずしてどよめきが起こる。傍らのアネクも瞠目して呟く。
「忘れざるヴァルタラ……」
すかさず胆斗公ナオルが進み出て、
「まことに嘉名かと存じます。敗北に撹れず、勝利に驕らざる名です。上下の心をひとつにし、大願に向かって邁進せしめる名です。もとより壮士は屈してのち初めて伸び、義士は枉げてのちかえって直くなるもの。ハーンのすべての盟友、僚友、群臣は、その名を聞き及んで奮起せぬものはないでしょう」
その日のうちに四方に早馬が送られて、ハーンの嫡子の誕生とその名が伝えられた。ナオルが言ったとおり、ヴァルタラの名を聞いて誰もが心を動かし、固く再起を誓った。
ヴァルタラには乳母を立てず、ハトン親ら乳を与えて養育することにした。太后ムウチをはじめ、鑑子女テヨナ、小白圭シズハン、神餐手アスクワなどがこれを輔ける。
その揺籠はウリャンハタ部から贈られた。手先の器用な娃白貂クミフが手ずから作ったものである。
またヴァルタラは実によく泣く赤子で、昼夜を問わずハトンを悩ませた。ときに苛立ってインジャに当たり散らしたが、さしもの義君もこれを宥めることはできなかった。ある日、見かねたムウチがこれを諭して言うには、
「よく泣くのはむしろ剛毅な証拠。長ずればむしろ沈着にして寛容な丈夫になるでしょう。インジャとて小さいころはそれはよく泣き喚いて私を困らせたものです」
アネクは意外そうな顔をしたが、悟るところがあったのか、以後は子に振り回されることはなくなった。
そんなヴァルタラもなぜか好漢たちの集う席では決まって上機嫌で、喧騒や怒号が起こるとかえって笑い声を挙げた。吞天虎コヤンサンはおおいに喜んで、
「御子は生まれながらに好漢の交わりをご存知でいらっしゃる!」
黄金の僚友はおおいに笑って、ヴァルタラを我が子のごとく愛したが、この話はここまでにする。
新たに生まれるものあらば、去りゆくものがあるのが世の常である。ジョルチにおいても例外はなく、年が明けてまもなくひとつの訃報に接することになった。
というのは、往不帰シャジが先の戦で受けた矢傷がもとで死んだのである。ジョンシ氏の宿将として部族を支え続けた武人の死を、インジャは滂沱と涙を流して悼んだ。
その性は剛直にして清廉であった。若い将領の多いジョルチにあって、その豊富な経験は貴重であった。諸将にとっては叔父のような存在であった。そもそもインジャの初陣から従っている数少ない武将であった。
ナオルが最期の言葉を伝えて、
「シャジは死ぬ直前まで聖恩に拝謝し、四頭豹を討てなかったことを悔いておりました。そしてご嫡子誕生でみなが喜んでいるのに水を差してしまうのではないかとそればかり気にして、死後も誰にも知らせぬようなどと申しておりました」
「何と愚かなことを。シャジは最も長く私に仕えている将ではないか。そもそも最初に私とナオルを会わせてくれたのがシャジであった(注2)。すべてはあの日から始まったと言ってもよい。シャジなくんば今日の我らもまたなかっただろう」
ナオルも襟を濡らしながら、ただただ頷く。
インジャは勅命を下してその功績を称え、ハクヒと同じく万戸侯に列して「猛奮将軍」の称号を与えた。またその子(注3)を百人長に任じてナオルに仕えさせた。
それらのことがことごとくすんだある日、獬豸軍師サノウが拝謁を求めた。その言葉はインジャをひどく驚かせた。何と言ったかと云えば、
「私の断事官の職を解き、天下に義の存するところをお示しください」
呆気にとられて、
「なぜそのようなことを言う。君は我がジョルチに唯一の軍師、信頼ある断事官だ」
答えて言うには、
「先の南征において利を得なかったのは、すべてこのサノウの浅慮に因るものです。ゆえに私を罰して、法の公平たることを万民に知らしめることが肝要です。軍に信賞必罰の理がなければ、必ずその兵は弱くなります」
インジャは眉を顰めて、
「しかし南征の罪責については不問に処すること、アラクチワド・トグムにて確認したではないか。重要なのは昨日の敗戦ではなく、明日の勝利だと」
それでもサノウの表情は変わらない。説いて言うには、
「だからこそ法規ある賞罰を徹底しなければならないのです。兵略における過失は火を見るよりも明らかです。ならば策戦を立案したものを罰するのは当然です」
「だがそもそも軍師は、オロンテンゲルの山塞に逼塞せるころより、我が部族を導いて過誤なからしめた第一の功臣。ただ一度の過失をもってこれを除くとは、あまりに不仁というものだ」
「僭越ながらそれはお考えが違っておりましょう。功は功、罪は罪です。功に対しては十分に褒賞をいただいておきながら、罪だけを免れては法は行われなくなります。法の執行に情誼を挟んで、悪しき前例を残してはいけません。ハーンの僚友といえども厳正に法が適用されることを知れば、臣民はいっそう気を引き締めて責務を怠らなくなりましょう。かくして国は富み、兵は強くなり、いつか大業を成就することもできるのです」
(注1)【悔咎】過去の失敗や罪。過ち。
(注2)【最初に私とナオルを……】二十三年前、二人が六歳のころのこと。第 三 回②参照。
(注3)【その子】かつてインジャ即位の際、シャジの子はナーダムの競馬に出場している。当時七歳、それから五年経っている。第六 〇回③参照。