第一一九回 ①
インジャ命名に窮して太師を召して諮り
サノウ法術を説きて義君に請いて辞す
さて、四頭豹ドルベンに大敗した義君インジャ率いる中軍は、亜喪神ムカリの猛追を受けて壊滅寸前であったが、突如現れた獅子ギィの軍勢に救われた。
やっと霹靂狼トシ・チノらと合流したインジャは撤退を決意、意気消沈したままアラクチワド・トグムまで退く。そこでヤクマンの降将たちに牧地を授けたりしていたところ、白面鼠マルケがアネク・ハトン出産の報をもたらした。
さらに踵を接して、マシゲルのアンチャイ・ハトンもまた出産したことが判る。テンゲリの司る命運に驚き喜びつつ、好漢たちは久々に宴に興じた。
その席上、ギィも負いたる宿運に順って、インジャに帰属を願い出た。こうしてギィは、唯一のハーンたるジョルチン・ハーンを憚って「アルスラン・ハン」と称することになったのである。
くどくどしい話はさておき、夜が明けると諸将はそれぞれの牧地へ向かった。インジャは道中ずっと我が子の名を考え続けていたが、これといって良い名も浮かばない。そこで超世傑ムジカを召し出して、
「君はなぜ子にクルチア・スルデルの名を与えたのか」
尋ねれば、拱手して答えて言うには、
「我が子は、氏族の人衆が奇人殿によって奸賊の手を逃れ、ハーンの人衆となった日に生を享けました。そこで私がハーンに仕える契機となったクルチア・ダバアを忘れぬよう、また我が子の誕生が人衆と草原にとって輝く吉兆となるよう、祈りを込めて名付けたのです」
おおいに感心すると、今度は呑天虎コヤンサンを呼んだ。すると、
「草原では元来命名にあまり気を遣いませんな。そのとき起こったことや見たものをそのまま付けたりするくらいです」
驚きつつも次は神道子ナユテに問う。しばらく考えて言うには、
「世間には我が子にあえて不吉な名を与えるものもいます。なぜなら悪魔の目を欺き、疫病や疾患から子を守るためです。例えばチュトグルは暗闇に潜んで子に危害を加えます。アダは疾病を運んだり、怪異をもって子の心を脅かしたりします」
「不吉な名とは、どんなものがある」
「そうですね。例えば、いたち、役立たず、粗末な、遺骨、角がある、よそものなどの酷い名を持つものまであります」
インジャは眉を顰めたり、目を瞠ったりしていたが、ついに苦笑して言った。
「なるほど。おもしろいことを考えるものもあるものだが、それでは我がハトンが激怒するだろう」
「ははは。失礼しました。あまり参考にならなかったようで」
「よい、ありがとう」
笑って退かせると、また独りで思案に暮れる。そこに胆斗公ナオルが馬を寄せて莞爾と笑うと、
「御子の名は決まりましたか?」
僅かに眉を顰めると言うには、
「ううむ、それがまだ……。先からいろいろと意見を聴いているが、迷うばかりだ」
「かつて聞いたところによりますと、ハーンの御名はエジシ太師が付けた(注1)とか。タムヤより太師を召してみたらいかがでしょう」
これには愁眉を開いて、
「それは名案だ。早速そうしよう!」
声を弾ませる。勅命を受けた飛生鼠ジュゾウが、列を離れてタムヤへ向かう。
ジョルチ軍は途中で道を分かつものがあるごとに送別の宴を開き、別れを惜しみつつゆっくりと北上した。
美髯公ハツチは、版図の拡大に伴った駅站の拡張を命じられたのが頭を去らず、毎日深刻な面持ちで地理の調査に心を砕いていた。あまりに刻苦勉励、うち込んでいるのに感心した石沐猴ナハンコルジが。
「そんなに思いつめているから禿げるのだぞ」
軽い気分で揶揄したところ、ハツチは頭の先まで紅潮させて、
「好きでこんな頭をしているわけではない!」
激昂したものだから、単に冷やかしただけのナハンコルジもかっときて、あわや拏み合いにならんかという一幕もあったが、道中はおおむね何ごともなく平穏に過ぎた。
(注1)【エジシ太師が付けた】第 二 回④参照。