第一一八回 ④
一個の盟邦現れてインジャ兵鋒を収め
二個の吉報連なりてギィ天命に順う
幾日かして、アネク・ハトンが無事に出産したとの報をもたらしたのは、白面鼠マルケであった。神都の情勢を探ったあと山塞に赴いた彼は、ちょうど吉報を得たので昼夜兼行で駆けてきたのである。
生まれてきたのは男児であった。
「おお、そうか!」
インジャはそれだけ叫んでしばらくは口も利けぬ有様だった。マルケは莞爾と笑って、
「ご安心ください。天仙娘によれば、ハトンも御子もすこぶる健康だそうです。おめでとうございます」
一同はわっと歓声を挙げて口々にこれを祝った。
「そうか、そうか。で、名は……」
隼将軍カトラが弾けたように笑って、
「それはハーンがお付けになるものでしょう!」
「おお、そうか!」
打虎娘タゴサがけらけらと笑って、
「先ほどからハーンは『そうか』としかおっしゃらないね!」
座は大笑に包まれる。インジャは笑い収めると頬を赤く染めて、
「ううむ、どういう名が好いか」
九尾狐テムルチがふざけた調子で、
「帰る前に決めておかねば、ハトンの逆鱗に触れますぞ」
またどっと笑い声。インジャはおおいに照れながら、
「揶揄うんじゃない。思いつくものも思いつかぬではないか」
石沐猴ナハンコルジが腕組みしつつ、
「鉄鞭のアネクの子ともなれば、相当な猛将に成長するに違いない」
などと呟いて、美髯公ハツチに窘められたりもする。ともかく誰もがこの慶事に心慰められ、常にもまして狂騒に身を委ねたのである。
ところが慶事はそれだけではなかった。マシゲルから早馬が到着して、瓊朱雀アンチャイ・ハトンの出産をも報せたのである。これも男児であった。
好漢たちは同日に二つの吉報を得て驚くとともに、これもテンゲリの運り合わせとおおいに盛り上がった。このギィとアンチャイの子こそ、のちに「小獅子」と呼ばれ、草原どころか異国までも名を轟かせる名将になるのだが、それはさておく。
その夜は一兵卒に至るまで酒が供され、好漢たちも久々に喉を潤した。
癲叫子ドクトの胡弓が鳴り響き、名曲「奔馬と戯れる」を合唱してひたすら騒ぐ。翌日には道を分かってそれぞれの牧地へ帰還するということもあって、宴はいつ果てるともなく続いた。
席上、ギィがインジャにつと近づいて言った。
「ジョルチン・ハーンにお話があります」
「改まって何ですか?」
向き直って尋ねれば、
「出陣したときから決めていたのですが……」
そこで一旦目を閉じる。しばらく待っていると、目を開いたギィは決然として、
「我がマシゲル部は、全人衆を挙げて、ジョルチン・ハーンにお仕えいたします」
「えっ! 今、何と……?」
虚を衝かれてインジャは瞠目する。ギィはもはや躊躇することなくはっきりと、
「マシゲル部を、どうかハーンの臣民にしてください。草原はかつての混乱を経て、漸く統一の気運が高まっております。四方を見わたせば、義君のほかに命を託すべき主君はありません。我が盟友たる超世傑が幕下に加わったと聞いて、内心羨望を禁じえませんでした。もとより私はベルダイから妻を迎えており、ジョルチとは浅からぬ縁があります。このようなときに申し上げるべきではなかったかもしれませんが、是非とも我が誠心をお容れくださるよう伏してお願い申し上げます」
そして言葉のとおり平伏する。インジャはあわてて助け起こすと、
「席にお着きください。私のごとき小人ならずとも獅子殿の仕えるべき英雄はありましょう。いや、そもそも獅子殿こそ一世の英雄ではありませんか!」
「これは独り私が決めたことではありません。アンチャイはもちろん、ゴロやコルブらとも諮って決めたのです。了承していただくまで帰るわけにはまいりません」
いつの間にかその背後にマシゲルの諸将が控えている。やはり拝礼して懇願する。インジャは唖然としてすぐには答えることができなかったが、やがて言った。
「それでは我が盟友として力を貸してください。獅子殿をほかの僚友と同列に扱うわけにはいきません」
莞爾と笑うと付け加えて、
「そのようなことをしては我がハトンに叱られます」
ギィたちはどっと笑うと、インジャを称えて乾杯する。このことはあっと言う間に末席まで伝わり、驚き喜ばぬものはなかった。
以後、ギィは唯一のハーンたる義君を憚って称号を改め、「アルスラン・ハン」と称することになる。これより先、ジョルチン・ハーンに仕える部族の長はすべて「ハン」、もしくは単に「カン」と称するようになった。
夜が明けて、彼らは新たな気概を胸に、それぞれの牧地へ帰っていった。
インジャは道中ずっと我が子の名を考えていたが、この長子こそのちに義君の遺志を継いで四方万里にその名を轟かせ、地上に住むすべての人衆に知られざるはなき英雄となるのである。
まさしく偉業を成すも難いが、それを保ち伝えるのはさらに難く、ここに一子在りて初めて万民安んずるといったところ。果たしてインジャは子に何と名付けたか。それは次回で。